現在、視覚障害者(以下、触常者という)の読書活動は受動的である。近年、パソコンの活用により、触常者の読書スタイルが多様化し豊かになった。しかし、点字と音声だけでは、先人が残した文化遺産の受容に限界があり、温故知新の知的刺激を実感し実践することが困難である。そこで、日本の古典文化を体感できる古写本『源氏物語』を素材として、仮名で書かれた紙面を触常者が能動的に読み取れる方策を実践的に調査研究し、実現することを目指すこととした。墨字の中でも平仮名(変体仮名)を媒介として、触常者と視覚に障害がない者(以下、見常者という)とがコミュニケーションをはかる意義を再認識する。触常者と見常者が交流と実践を試行しながら、新たな理念と現実的な方策の獲得に本課題では挑戦するものである。
1.研究の学術的背景
本課題の研究代表者である伊藤鉄也は、鎌倉時代に筆写された古典籍を読み解くことを専門とする。『源氏物語別本集成 正・続 全30巻』(伊井春樹・伊藤鉄也・小林茂美編、桜楓社・おうふう、1989年~刊行中、既刊22巻)や、『ハーバード大学美術館蔵『源氏物語』「須磨・蜻蛉」』(伊藤編、新典社、2013・2014年)などが、今回の研究テーマで活用できる成果である。
これまでの研究過程で、『群書類従』という膨大な叢書を編纂した全盲の古典学者・塙保己一に関心を抱き、現代の触常者と見常者とが日本文化を共有する方途を模索するようになった。
連携研究者の広瀬浩二郎は、全盲者の立場で日本宗教史を研究してきた。線文字から点字へと発展した盲教育の実情を踏まえて、触常者が実用的なレベルで平仮名を触読することは困難だと考えてきた。それは、点字導入以前の明治初期の浮き出し文字による教材のありようと、その到達点の有用性を考慮してのものであった。
しかし、情報処理のインフラが整備された。1990年代以降、触常者がパソコンを利用して、独力で墨字を読み書きできるようになった。Eメールの利用も日常化している。環境が変化したことを受けて、新たに周辺諸領域の研究成果を導入した実験的な取り組みを開始することにした。
2.研究期間内に何をどこまで明らかにしようとするのか
触常者が疑似的な古写本(版木や立体3D文字等)を触読することで、筆記されている変体仮名を識別し、言葉として認識できる環境を創出することを、当面の解決すべき目標とする。この実現により、触常者の日本文化に対する理解が深まり、見常者と日本の古典文化に関する情報を共有できるようになることが期待できる。さらにそれを支援するものとして、『変体仮名触読字典』と『点字版古文学習参考書』を作成する。この目的のために、朗読素材も用意し活用する。
3.当該分野における本研究の学術的な特色及び予想される結果と意義
触常者が、凹凸の平仮名(変体仮名)や立体文字を、しかも縦書きが読めるようになれば、能動的な読字読書の環境が拡大する。点字や音読によるボランティアに頼って触常者の読書体験を支えることには限界がある。古写本に筆写された文字を触常者が触読できるようになると、積極的に日本の伝統的な文化を、自分の力量に応じた文献および手書き資料で、より深く理解できるようになる。さらに、国文学研究資料館が所蔵する約20万点にも及ぶ古典籍のマイクロ・デジタル資料が活用対象ともなり、新たな学習の機会が得られるようになる。
もし、変体仮名の十分な解読にまで至らなくても、明治中期以降に策定された現行の平仮名の触読が可能となれば、目的の半ばは達成できたといえる。図書館が平仮名による総ルビの書物を立体コピーしたり、透明シートにひらがなを立体コピーしたものを書籍に貼れば、触常者も図書館の資料を自分の意思で利用できるようになる。触常者が、図書館で主体的に本が読めるようになると、図書館や資料館の役割も変わらざるをえない。触常者への対面朗読や、点字及び朗読CDの貸し出し等に留まっていた図書館の機能が、新たな役割と使命を帯びることになる。