配布資料・源氏写本研究の魅力と可能性

講演とワークショップ「源氏写本研究の魅力と可能性」

国文学研究資料館教授 伊藤鉄也(いとう・てつや)
国文学研究資料館科研運用補助員 関口祐未(せきぐち・ゆみ)
 

 

 1.『源氏物語』「蜻蛉(かげろう)」のあらすじ

 

『源氏物語』とは

 『源氏物語』は、光源氏(ひかるげんじ)の生涯を中心に描いた物語です。全部で54巻という大変長い物語です。

 『源氏物語』が書かれたのは、今からちょうど一千年前の、平安時代中ごろです。『源氏物語』は、書かれた当時から、優れた作品として高く評価され、たくさんの読者を得て読み継がれてきました。現在も、日本のみならず、世界中で読まれています。

 

写本(しゃほん)とは

 『源氏物語』の物語本文は、江戸時代まで、筆で紙に書き写して伝えられてきました。

 『源氏物語』には、作者が書いた「原本(げんぽん)」は残っていません。しかし、『源氏物語』が書かれた当時から、原本を書き写したものをまた書き写す、という形で、繰り返し書写がなされました。書き写した書物を「写本(しゃほん)」といいます。特に、江戸時代より前に書き写した書物を「古写本(こしゃほん)」といいます。

 『源氏物語』を書き写しているとき、写し間違いをすることがあります。その結果、『源氏物語』にはさまざまな種類の物語本文が生まれました。どの本文が『源氏物語』の原本に近いのかを調べ、失われた原本の姿に本文を戻す作業が『源氏物語』の本文研究です。

 今回〈運読〉する、ハーバード大学美術館が持つ『源氏物語』「蜻蛉」の巻は、今から700年前の鎌倉時代に写された古写本です。『源氏物語』には、平安時代に書き写された写本は残っていません。したがって、ハーバード本は、現在残されている『源氏物語』写本のなかでも、時代の古い、大変貴重な古写本です。

 

宇治を舞台とした物語「宇治十帖(うじじゅうじょう)」

 今回〈運読〉する「蜻蛉」の巻は、「宇治十帖(うじじゅうじょう)」のなかの1巻です。

 「宇治十帖」とは、『源氏物語』54巻のうち、最後の10巻を指します。「橋姫」(はしひめ)から、「椎本」(しいがもと)・「総角」(あげまき)・「早蕨」(さわらび)・「宿木」(やどりぎ)・「東屋」(あずまや)・「浮舟」(うきふね)・「蜻蛉」(かげろう)・「手習」(てならい)・「夢浮橋」(ゆめのうきはし)までの10巻です。「蜻蛉」は、『源氏物語』52番目の巻になります。

「宇治十帖」は、光源氏が亡くなったあとの、源氏の子・孫の世代と、宇治に住む姫君たちの恋物語です。

 

「蜻蛉(かげろう)」の巻

 「蜻蛉」は、前の巻「浮舟」を受けて、浮舟(うきふね)のゆくえがわからなくなったところから語り始めます。浮舟が消えてしまったあとの人々の動きを丁寧に描いた巻です。薫(かおる)は27歳、匂宮(におうのみや)は28歳、浮舟は22歳ほどです。

 「蜻蛉」という巻の名前は、巻の最後で、薫が宇治の姫君たち、大君(おおいぎみ)・中の君(なかのきみ)・浮舟とのめぐりあいを思い返す場面で詠んだ、次の歌に拠っています。

ありと見て手にはとられず見ればまたゆくへも知らず消えし蜻蛉

 歌の意味は、目の前にあると見えながら手には取ることができず、見るとまた、ゆくえもわからずに消えてしまった蜻蛉よ。「蜻蛉」とは、身体が細長く、4枚の羽を持つ昆虫です。姿はトンボに似ています。寿命は1日から3日ほどと短く、はかないイメージを持つ昆虫です。

 薫の求愛を拒んだ宇治の大君は、病で亡くなります。中の君は、匂宮と結ばれます。そして浮舟は、ゆくえ知れずとなりました。「蜻蛉」は、薫が思いをかけたけれど、結ばれることのなかった女性たちを表しています。

 

宇治の地について

 舞台となる宇治は、794年、都が奈良から京都の平安京へ移ったあと、貴族たちの別荘地となりました。

 また、宇治は、「憂し(うし)」という言葉に通じる場所とされました。「憂し」という言葉は、「つらい」という意味で、物事が自分の思うようにならず情けない、苦しい、こんな目に合う自分が嫌だ、気に入らない、という気持ちを表します。

 宇治を、「憂し」、つらい場所だ、とするイメージは、和歌のことばから生まれました。例えば、『百人一首』に取られる喜撰法師(きせんほうし)の歌があります。

わが庵(いほ)は都のたつみしかぞ住む世をうぢ山と人はいふなり

 歌の意味は、わたしの庵(いおり)は、都の東南の位置にあって、このように心のどかに暮らしています。しかし、世の中の人は、ここを、世を憂しといって住む宇治山だ、と言っているそうです。「宇治山」の「宇治」に、音が同じ「憂し」を掛けています。宇治山は、世を憂し、つらいとする人々が隠れるところ、と当時考えられていたことがわかります。「宇治十帖」も、宇治はつらい場所だというイメージをもとにして書かれています。

 薫にとって宇治の地は、八の宮(はちのみや)・大君そして浮舟の死を体験する心憂き場所となりました。 

 

 

2.ハーバード本「蜻蛉」を〈聴読〉する

 

【聴読する場面】

 宇治では、浮舟がゆくえ知れずとなり、人々が大騒ぎします。残された浮舟の手紙を見て、宇治川に身を投げたと思った浮舟の女房・右近(うこん)と侍従(じじゅう)は、悪いうわさが広がらないように、人目をいつわって、亡骸のないまま火葬を行います。同じころ、薫は、母・女三の宮(おんなさんのみや)の病気が治ることを祈って、石山寺(いしやまでら)に籠もっていました。

 薫のもとに、事情を知った薫の荘園の者がやってきて、浮舟がゆくえ知れずになったこと、すでに葬儀をすませたことを知らせます。今回〈聴読〉・〈運読〉するのは、浮舟のゆくえがわからなくなったことを薫が知り、驚く場面です。薫は、すぐさま宇治へ使いをやります。薫の使いは、葬儀の翌朝、宇治に到着します。薫は使いから宇治の様子を聞くのですが、そのときの薫の心のうちを読んでいきます。

 

【聴読する本文】※朗読は35秒

殿は、なほ、いとあへなくいみじと聞き給にも、心うかりけるところかな。鬼などや住むらん。などて、今までさる所に据ゑたりつらん。思はずなる筋の紛れあるやうなりしも、かくて放ち据ゑたるに人も心やすくて、言ひ犯したまふなりけんかし、と思ふにも思ふにも、我たゆく世づかぬ心のみくやしきを、胸いたくおぼえたまふ。

 

【口語訳】

薫は、やはり、何ともむなしく悲しいこととお聞きになるにつけ、「宇治というのは、つらい場所だなあ。鬼などが住んでいるのだろうか。どうして、これまでそんな場所にあの人を住まわせていたのだろうか。思いがけない方との秘密事があるようだったのも、私がこうして放っておいたものだから、あの方も気安く言い寄って手出しなさったのだろうよ」と思うにつけても、自分の注意が行き届かず、男女のことに疎いことばかりが悔やまれて、胸も締めつけられるような思いがなさる。

 

 

3.ハーバード本「蜻蛉」を〈運読〉する

 

【運読する本文】

【心】うかりけるところ可な

お尓なとやすむらん

 

【口語訳】

宇治というのは、つらい場所だなあ。

鬼などが住んでいるのだろうか。

  

物語の続き

 薫は、匂宮が浮舟に手を出したのも、宇治に浮舟を放っておいた自分が悪かったのだと悔やみます。このまま病気平癒の祈願を続けるわけにもいかず、薫は、病に伏せる母・女三の宮のいる京へ帰ります。その後、薫は宇治を訪れ、右近から浮舟が宇治川に身を投げたことを聞くのでした。匂宮は、悲しみのあまり病の床につきます。

  


参考文献

『日本古典籍書誌学辞典』(岩波書店1999)

「源氏物語の鑑賞と基礎知識 28蜻蛉」鈴木一雄監修・伊藤鉄也編集(至文堂2003)

『ハーバード大学美術館蔵『源氏物語』「蜻蛉」』伊藤鉄也編(新典社2014)