概要
古写本に墨で書かれた変体仮名を、しかも縦書きの日本語墨字文を触常者が触読することを可能とすることを、２年間で実現する最低限の目標に設定している。明治時代以降、日本古来の仮名文字の触読は必要とされなかった。そこで、この点に再検討を加える。盲学校の先生と児童生徒のみなさんの協力を得ながら、変体仮名が果たしてきた役割と日本文化について、見常者と共に理解を深め、古語で筆写された『源氏物語』の文章表現を共に読解できる環境を構築する。最新の電子情報機器の活用により、新たな方策が生まれる感触と確信を得てのスタートである。
本研究では、鎌倉時代に書写されたハーバード大学本『源氏物語』「須磨」巻の和歌を例にして、平仮名（変体仮名）で筆写された文字資料を視覚に障害を持つ触常者が触読する方法の実現と確立を目指す。難題に挑戦するということから、ハードルは高く設定して取り組むことにした。
２年間で実現することは、次の３点である。
- 古写本『源氏物語「須磨」巻』を変体仮名触読シートで読解
- 『変体仮名触読字典「須磨」編』の作成と活用法の構築
- 『点字版古文学習参考書「須磨」編』の作成と学習法の確立
※上に例示した仮名は「須磨」巻に出てくる和歌の初句「ふるさとを～」。
末尾「を」の字母が現今の「遠」と違い「越」という変体仮名である。
触読を繰り返す中で変体仮名のパターンを体得して学習を進めていく。
設定したこの到達目標を、東京と京都の盲学校の先生と児童生徒のみなさんの協力を得て、実現のために実験実習を繰り返すことになる。
このテーマに取り組むメンバーの役割を明確にしておく。
◎連携研究者：広瀬浩二郎（国立民族学博物館准教授）
全盲の文化人類学者の立場から、触常者と見常者が日本の古典文化を共有する方途を探求する。これは、平仮名という墨字の文字を読むことに対する、触常者の認識の変化を生むことになろう。
◎連携研究者：大内進（独立行政法人国立特別支援教育総合研究所・企画部客員研究員）
視覚障害教育用教材に関する研究成果と、３次元造形システムの活用と実践、及び文字認識の問題を通して、教材作成と教育指導面で多様な対応と有効な提案がなされることが期待できる。
◎連携研究者：中野真樹（関東短期大学専任講師）
日本語学や文字表記論の成果や点字の特性を、仮名遣いの観点から追究する。触常者の文字学習メディアとユニバーサル・デザイン分野からの提言は、本課題に貢献することが大である。
◎研究協力者：高村明良（筑波大学附属視覚特別支援学校教諭 全国高等学校長協会入試点訳事業部専務理事）、岸博実（京都府立盲学校非常勤講師）、間城美砂（国文学研究資料館古典資料目録係職員）、淺川槙子（国文学研究資料館プロジェクト研究員）
高村と岸は、盲学校での実験実習と実証に研究協力者として参加する。間城は音読資料と音声教材作成における研究支援者として、淺川は実験と研究資料の整理と研究者間の連絡調整を担当する研究協力者の役割を担うことになる。
平成２７年度の計画
「須磨」の和歌を浮き彫りにした教材 ⇒ 盲学校生の体験実習 ⇒ 字書と参考書の編集
ハーバード大学本『源氏物語』「須磨」には、『源氏物語』５４巻の中でも最多の４８首もの和歌が出てくる。その中から触読にふさわしい和歌を数例取り上げ、それを当面の実験素材とする。
１枚の木の板に、７００年前の変体仮名で書かれた文字列を彫り、平仮名だけでも手の感触で識別、認識できるように実験と実習を行う。この触読が可能となれば、目の見える人と目の見えない人の距離は相当縮まることになる。その際、古写本の連綿体の文字はつながっているので、初心者用としては１文字ずつに切れ目を入れたものも試作し、試行錯誤を繰り返す中で実用的な教材作成をめざしたい。１頁に１０行、１行に１５文字ほどある教材を準備して当たる。１文字の大きさは１０ミリ前後である。
この試作教材で、全国の視覚特別支援学校と盲学校の児童生徒のみなさんに体験学習をお願いし、高村明良と岸博実の指導と評価の下で、変体仮名の触読を実現する可能性を探る。
併せて、ハーバード大学本『源氏物語』に書写されている文字を、教材化した部分から１文字ずつ切り出して、立体コピーによる『変体仮名触読字典「須磨」編』を作成する準備に着手する。平仮名を中心とした、変体仮名の学習のためである。
同時進行として、点字による中学生レベルの『点字版古文学習参考書「須磨」編』の編集も進める。仮名文字が触読できるようになれば、次には文字列が構成する古語の理解を深めることが、古文としての『源氏物語』を読解する上では不可欠となる。さらに、古文の理解へとステップアップできるように、その学習環境の整備も常に心がけて対処していきたい。内容は、あくまでも「須磨」巻で教材化した部分を中心とした範囲に留め、平易な解説となるように心がける。この過程で、音声による支援も加味することで、実効性の高い触読学習指導システムを構築したい。
なお、初年度の公開研究会は京都で実施する。
平成２８年度の計画
仮名文字触読の実現 ⇒ 変体仮名を習得する過程の記録と整理 ⇒ 研究実践成果の報告
『変体仮名触読字典「須磨」編』の作成と共に、古文の理解を手助けするための学習参考書『点字版古文学習参考書「須磨」編』を完成させる。共に、中学生向けの字書と参考書をイメージしている。触常者と見常者とのコミュニケーションにおいて、日本の伝統文化に関して意思の疎通がはかれていない。その原因の一つとなっている、読み書きに用いる文字というツールの相違とその理解についても、字書と参考書の編集で配慮をしたい。
この参考資料と参考書によって、文学と歴史の理解を深めることになる。日本の文化の多様性を体験的に実感できる環境作りと構築を推進することになる。
変体仮名の読解については、前年度に引き続き、体験・実験・実習を継続する。触読する和歌を少しずつ増やすことにより、変体仮名の感触が習得できた時点で、可能であれば物語の本文部分も体験できるようにしたい。また、１頁に書かれた文字がそれぞれに姿形を変えて書写されていることを、１５cm四方のスペース全体を触ることで体感することにも挑戦したい。ここから、日本独自の美意識による書写芸術や書道文化への理解へとつなげることもできる。墨継ぎによる文字の濃淡や大小と、同じ読みの仮名であってもあえて字母を変えて書くことなども、紙面全体の感触から体感できるようにしたい。
仮名習得のプロセスは丹念に記録として残すことで、触常者が今後とも変体仮名学習の手引きとなるように、実験実証の過程を客観的に記述して整理する。
公開研究会は東京で実施する。