現在、視覚障害者(以下、触常者という)の読書には、点字と音声が使われている。「古写本(こしゃほん)『源氏物語』の触読研究」は、点字と音声のほかに、指で触って読む「触読」という新たな方法を用いることにより、日本に古くから伝えられてきた文化を、広く、深く学び、感じとることができると考える。
日本の古典文化を感じることができる作品に、『源氏物語』がある。七百年前となる鎌倉時代に、筆で書き写された『源氏物語』の仮名文字の本文を、触常者が自分の力で読み取る方法を調査・研究し、実現する。
仮名文字を通して、触常者と視覚に障害がない者(以下、見常者という)とがお互いに考えを伝え合い、よりよい触読の方法を共に探りながら、仮名文字を読むための新しい環境を作り出すことに挑戦する。
1. なぜ研究するのか
研究代表者である伊藤鉄也は、鎌倉時代に筆で書き写された『源氏物語』(以下、古写本(こしゃほん)『源氏物語』という)の本文を読み解く研究をしている。
伊藤はこれまで研究をする中で、『群書類従』という、日本の古典文学作品や歴史史料を広く集めて出版した、全盲の古典学者・塙保己一に関心をいだき、触常者と見常者とが日本文化を共に学ぶことのできる方法はないか、考えるようになった。
研究を共に進める広瀬浩二郎(ひろせ・こうじろう)は、全盲者の立場から、日本の宗教史を研究してきた。線文字から点字へと発展した盲教育の歴史を踏まえて、触常者が、仮名文字を、実際に役に立つレベルで触読することは難しいと考えてきた。それは、日本が点字を用いるようになる前の明治時代初め、学校教育で行われた浮き出し文字での学習が難しいものであったことや、その成果を考え合わせてのことであった。
しかし、一九九〇年代より、触常者がパソコンを使って、墨字を読み書きできるようになった。Eメールも日常使われている。環境が変化したことを受けて、新たにさまざまな分野の研究成果を取り入れた、実験的な取り組みを始めることにした。
2. 二〇一五〜二〇一六年度の二年間で行う調査・研究
ハーバード大学美術館が持つ古写本(こしゃほん)『源氏物語』の仮名文字を、木の板に写し取って凸字に彫り出したり、立体コピーする。これらの浮き出し文字を触常者が触読することにより、筆で書かれた仮名文字の形を理解して覚え、言葉として読み取ることができる環境を作り出すことを目標とする。仮名文字は、明治時代中期に、日本の国語改革によって、現在の平仮名・片仮名と、それ以外の変体仮名にわかれた。仮名文字の、平仮名・変体仮名を読み取ることができるようになれば、触常者の日本文化に対する理解が深まり、見常者と日本の古典文化についての情報を共有できるようになると期待できる。さらにその学習を助けるものとして、『変体仮名触読字典』と『点字版古文学習参考書』を作成する。朗読や音声読み上げなどの、声による案内も用意し、活用する。
3. 特色
触常者が、凹凸の仮名文字や立体文字を、しかも縦書きが読めるようになれば、本を読む環境が広がる。鎌倉時代に筆で書き写された文字を、触常者が触読できるようになると、古くから伝わる日本の豊かな文化を、文献や手書き資料からより深く学ぶことができるようになる。さらに、国文学研究資料館が持つ二十万点もの古典の書物を撮影したマイクロ・デジタル資料が活用できるようになり、新たな学習の機会を得ることができる。
もし、変体仮名が十分に触読できなくても、明治時代中期以降に定められた現在の平仮名の触読ができれば、目的の半分は達成できたといえる。図書館が、平仮名による振り仮名(かな)を付けた書物を立体コピーしたり、透明シートに平仮名を立体コピーしたものを本に貼れば、触常者が読みたいと思う図書館の資料を自由に利用できるようになる。触常者が、自分の力で図書館の本が読めるようになると、図書館や資料館の役割も変わらざるをえない。触常者への対面朗読や、点字・朗読CDの貸し出しなどにとどまっていた図書館に、新たな役割が与えられることになる。