源氏物語本文の位相と定位に関する考察
b「澪標」十五種の書写様態判別の基準についてb
はじめに
今われわれが確認できる平安朝に書かれた『源氏物語』は、写本として伝えられた受容資料としての書物しかない。文字で記された本文という言葉によって、そこに語られる物語世界を読み解いているのである。平安朝という同時代に身を置いて、現在形で物語を受容することも、直接作者に取材することも不可能である。古典となっている作品をどう受容するか、ということしか与えられていない。その点から言えば、近年、『源氏物語』の基準本文として定着した大島本は、その完成度の高い本文を今に伝えるものといえよう。しかし、書写により伝承されてきた物語の宿命として、異本・異文というものも今に伝えられている。諸本には、長短さまざまな異文が混在する。大島本の圧倒的な支持によることもあって、異本の異文はこれまではあまり注視されてこなかった。そのような中で、最近、伊井春樹氏によって、異本は異本として読む試みがなされている(『保坂本 源氏物語解題』平成九年三月、おうふう)。『源氏物語』を読む楽しみが、また増えたように思う。
それでは、異本を読んでみようと思った場合に、最近は翻刻の種類が増えたとはいえ、どの本がどのような位置づけになるものかが不明である。『源氏物語』における本文研究は、いわゆる青表紙本と河内本に触れる程度で、その本文の整理は未成熟のままである。ここにも、大島本の絶対的な信奉が影響していると言わざるをえない。少なくとも、この本文は大島本とはどの程度の位相の変化を持つものなのかを、早急に取りまとめる必要性を痛感している。とりあえずは、大島本との相対的な位置づけの提示は急務といえよう。その際、対比の対象として、読み継がれてきた歴史という実績を持つ河内本も、重要な比較本文となる。
そこで本稿ではまず、写本として確認できるものに記された本文の位相を、言葉の異同にあらかじめ設定した重みを与えることによって、可能な限り記された言葉の総体としての違いを、二次元の空間に配置することを試みてみた。今回は「澪標」という一つの巻を対象にしたに過ぎないが、このような対処を積み重ねることによって、『源氏物語』五十四巻の諸写本おのおのの位相が、三時元的な空間に見て取れることになるはずである。この本文の書写様態上からの位相の定位と、言葉がつむぎ出す物語世界を読み分け、読み解くことによって、『源氏物語』の異本の位相が、より明確に見えてくることであろう。
そのような見通しのもとで、まずは諸本の位相を、受容資料としての書写様態の検討を通して見ていくことにしたい。
一、考察対象とする「澪標」本文について
『源氏物語』の本文については、池田亀鑑氏が提示された三分類が現在も継承されている。〈青表紙本〉〈河内本〉〈別本〉である。阿部秋生氏が青表紙本に対する慎重な態度を表明された(『源氏物語の本文』昭和六一年六月、岩波書店)。本文研究はそれ以降もあまり進展してはいない。いわゆる青表紙本の中の一つである大島本が『源氏物語』の基準本文となって久しい。最近、待望の大島本の複製本が刊行された(『大島本 源氏物語 全十巻』角田文衛・室伏信助、角川書店、平成八年)。時を同じくして、保坂本の全容も明らかになった(『保坂本 源氏物語 全十二巻+別巻』伊井春樹、おうふう、平成八年)。別本とされてきた本文を多く含む源氏物語古写本一揃いが、陽明本(『陽明叢書 源氏物語 全十六冊』陽明文庫、思文閣出版、昭和五十七年)と共に容易に確認できるようになった。その他、『日本大学蔵 源氏物語 全十三巻』(岸上慎二/杉谷寿郎/岡野道夫/阿部好臣編、八木書店、平成六年)が近年刊行された。『尾州家河内本 源氏物語 全10巻』(山岸徳平監修、貴重本刊行会、昭和五十二年)も有益な本文資料である。
しかし、『源氏物語』本文の資料的な検討は、まだまだ未成熟である。本稿は、こうした『源氏物語』の本文研究の現状において、少しでも諸本の実態と性格が把握できるようにすることによって、諸本毎の読みがさらに深まることを念頭に、「澪標」を例として、諸本の本文の整理を試みたものである。「澪標」を取り上げたのは、東大本の本文に興味を持ったことに始まり、『源氏物語大成』に別本として採択されたものがないことなどからである。
『源氏物語大成』には、次の諸本が校異に採択されている。
『源氏物語別本集成』には、陽明本・大島本・麦生本・阿里莫本・東大本・尾州家本を収録している。
今回、本稿で取り上げた諸本は、以下の十五種類である(通称略称の五十音順)。
阿里莫本(天理図書館蔵)選定の基準としては、影印・複製本で本文が確認できるものを中心とした。さらに、手元に紙焼き資料のある阿里莫本・国冬本・東大本・前田本・麦生本を加えた。
二、諸本対校の方法
本稿においては、諸本間の書写様態の相違を、文節単位で見ていく。その際、書写されている語句の違いを、各々の異同に重みを付けることによって、写本間の位相を総合的に読みとれるようにした。この加重相加平均という手法は、『源氏釈』の依拠本文を検討した際に用いたものである(「『源氏釈』依拠本文の性格(上)(下) ー玉鬘十帖における別本の位相ー」昭和54・昭和55、拙著『源氏物語受容論序説』桜楓社、平成2所収)。さらにこの手法を発展させて、「桐壷」の本文異同を考察した際にも活用した(「新資料・伝阿仏尼筆本「桐壷」の位相 ー室伏校合本の検討を通してー」『大阪明浄女子短期大学紀要 第六号』平成 3年・「『桐壷』における別本諸本の相関関係」『源氏物語研究 第二号』源氏物語別本集成刊行会、平成 4年・「桐壷巻における別本群の位相 ー桐壷帝の描写を中心にしてー」『中古文学 第五十号』中古文学会、平成 4年)。ただし、今回は諸本間の本文様態上から見た位相を明確にするという目的のために、より詳細な項目を設定して階級値も本文実体を反映しやすいものとして配分した。
これまでは、次のような重みを階級値として設定していた。
〈旧・階級値〉
┏━完全一致……………〈1.0〉これを実際に利用して十数年が経過した。その間に、何度も一部に修正を加えながら、諸写本に記された本文の実体をより忠実に反映した尺度となるものを心がけてきた。これまで用いていた階級値設定の不備は、次の三点に集約される。
(1)完全に一致しないまでも、ほぼ同一の語句を伝えると判断できるものは「不完全一致」としていた。
しかし、この種の語句は意外に異同の変形が多く、〈不完全一致〉はもっと細分化すべきである。
これに伴い、〈部分的異文b欠落〉と同一階級値になることが防げる。
(2)〈部分的異文b補入(0.5)〉と〈全体的異文b欠落(0.3)〉は、本文の実体からいえば逆に設定すべき重みである。
元本を側に置いて書写した場合に、語句が欠落するよりも語句が補入されていく方が、元本の本文からは離れることになる。
したがって、欠落よりも補入の階級値を低くすべきである。
(3)階級値を〈0〉までとせず、マイナス値も可能にすべきである。
ここで行なう重み付けの手法では、対校本文を文節単位に取り出して校合している。
その際、長文の補入や、助詞・助動詞レベルでの細かな異同の集積による異文にも、対処できるようになる。
そこで次にあげるものは、今回これらの問題点を解消する趣旨から階級値を見直し、より柔軟に諸本間の本文異同に対応できるものとしたものである。これまでに行ってきた処理を通して得た改善点を可能な限り取り込み、異同の実体をより正確に反映できる重み付けを目指したものである。
〈新・階級値〉
┏━完全一致……………〈1.0〉不完全一致を四つに細分化し、【部補】と【全欠】に階級値の入れ替えがある。これで、諸写本の相関関係が、より明確になり、その様態が浮き彫りにされるはずである。
三、重み付けの細則
重み付け処理をより客観的な手法とするための細則を、以下に明文化しておく。今は一巻十五種類の写本の処理を終えたに過ぎない。今後とも膨大な量の本文を対象としていくためにも、この手法の定型化を図る必要がある。本処理は、書写本の様態を正確な相関関係の中で把握するための、いわば基礎資料作成となるものである。このガイドラインに沿った重み付けを継続する中で、より適切な指針を微調整していきたい。
○対校基準本文(別本など)に対して、大島・尾州各本文の校異をチェックする。
(大島・尾州本が、対校本文とどういう位相にあるかを見るため。両者の関係を間違うと、欠落と補入が反対になる。)
○あくまでも、本行本文で対校する。
○重み付けにあたっては、以下の方針に留意する。
・〈1.0〉…《完全一致》は、基準本文と対校本文が完全に一致する場合。
140001,さやかに,【完全】,さやかに,【完全】,さやかに,
*ナゾリ文字は異同なしとした。直前の字句を完全に消去する意志があるため。
140022,かく,【完全】,かく/く&く,【完全】,かく,
・〈0.9〉〜〈0.6〉《不完全一致》は、常識的な知識(高校古典レベル)で音読比較してほぼ同一の場合。
(音便〈0.9〉…送仮名〈0.8〉…仮名遣〈0.7〉…漢字仮名&踊字〈0.6〉)
140050,なりなむ,【不音】,なりなん,【部変】,なりぬる,
140011,給ひて,【不送】,給て,【完全】,給て,
140042,をもく,【不仮】,おもく,【完全】,おもく,
140004,夢の,【不漢】,ゆめの,【不漢】,夢の,
140030,御八講,【不漢】,御はかう,【不漢】,御八かう,
・〈0.5〉〜〈0.2〉《部分的異同》(欠落〈0.5〉…変化〈0.4〉…補入〈0.2〉)
《部分的異文・欠落》 基本的に語幹は不完全ながら一致と認定した上で。
140137,なこり,【完全】,なこり,【部欠】,いかになこり,
《部分的異文・変化》
140064,おほしけるを,【部変】,おほしなけきつる,【部変】,おもほしなけきつる,
《部分的異文・補入》
140059,給,【部補】,給て,【部補】,給,
140005,後は,【不漢】,ゝちは(のちは),【部補】,ゝち(のち),
・〈0.3〉〜〈0.0〉《全体的異同》(欠落〈0.3〉…変化〈0.1〉…補入〈0.0〉)
《全体的異文・欠落》
対校する本文が「ナシ」の場合。『源氏物語別本集成』の底本以外の時のみ。
《全体的異文・変化》
140017,すくひ,【全変】,かろめ,【全変】,すくひ,
140018,奉る,【全変】,きこゆる,【完全】,きこゆる,
《全体的異文・補入》
140040,ナシ,【全補】,なを,【完全】,なを,
・〈9.9〉《判定保留》
140002,みえ,【完全】,みえ,【保留】,見, (【不送】【不漢】【部補】【部変】の可能性あり)
・対校本文と文節単位で複数の異同がある場合。最も低い階級値を判定値とする。
140003,給し,【完全】,給し,【不漢】,たまひし, ……後者大島本の【不送】は無視する。
140006,院のみかとの,【不漢】,ゐんのみかとの,【不漢】,院の御かとの, ……後者尾州の【不漢】は無視。
140015,たまえむ,【部変】,給らん,【完全】,給らん, ……前者大島本の【不漢】は無視
なお、複数の文節にわたる異同がある場合は、最も低い階級値から、一カ所につき一階級減じる。
この処置については、メモに明記すること。
140020,せむと,【不音】,せんと,【全欠】,せんと御心のうちに,尾州+【全欠】
・語句が転倒している時などは、重み付けの正確さが低減するように見える。
しかし、この転倒・倒置された語句は、異同傾向の顕著なものと認定しうるので、このままでよい。
○注意事項
・まず文字を比校し、次に語句を比較する。書かれた文字の校合が優先する。
・部分的異同は、対校文節中の単語レベルで比較する。
・全体的異同は、文節レベルで比較することを原則とする。
・異同がある箇所では、複合語をあまり認めない。
・部分的補入(重み〈2〉)のケースで、同一用例中にもう一例異同がある場合
〈−1〉の処理は、画面上では二つ左のボタンを押し、全体的変化(重み〈1〉)になる。
・「おほし」と「おもほし」は、部分的変化とする。
・文節単位での補入・欠落の処置
補入語句は、二つ目からb1ずつ単語単位で引く。
陽明本 せんと・「御ことも」と「御ことん」は仮名遣の異同とする。
例 140472
・「ナシ」の自動処置は、「なし」と「ナシ」を区別できないので、プログラムを再検討のこと。
・長文の挿入はマイナスの値となる。
例 140648の尾州本はb14あたりになる。
・単純な書写ミスと思われる異同は、部分的変化とする。
例 142115 かけはなれ
けはなれ/〈ママ〉
・一単語中に二つの異同があっても、一異同とする。一文字単位での対校はしない。
例 142851 おもひやり事なれと
思やりことなれと
漢仮踊とする
・「いと」と「いとゝ」などの踊り字に伴う異同は、部分的欠落とした。
踊り字の異同は、誤字誤読の要素を多分に認めた。漢字仮名踊とする
例 142080 国冬本 とをつゝなと 6 とをつらなと 10 とをつらなと
・「さり」と「そあり」は、部分的変化とした。 140915
・「事と」「ことゝ」は、「事・と」と「こと・ゝ」の比較のために二回チェックし、「5」となる。
・音便無表記にともなう例。
例 143095 侍らてなむと
侍らてなと
・対校本文が数文節の場合は、補入された形になっている単語ごとに、部変の補入扱いからb1ずつ引いていく。
・漢字表記上の異同は、異同なしとした。
例 010994 船 舟 など
・相対的な重みつけとなる。
例 140649 事 0 ナシ b1 事を
・大島本と尾州本の本文の様態を考慮して重みをつける。
例 140845 思ふ 5 おもふ 6 思
141167 たまふよ 6 給ふよ 8 給よ(送りがなの異同とする)
・活用形の異同は、部変とする。一語同志の場合も、全変とはしない。
・削除された文字は無視する。
例 142076 いつく△しき/△〈削〉
・不読文字は、一応対校本文に合わせる。無理に異同としないいみからも。
例 140175 はかりの 10 は△りの 10 はかりの 麦生
・明らかな誤字は仮名遣いの異同とした。
例 140396 こそ7 うそ 7 こそ 麦生
・「そあり」と「さり」は部分的変化とする。
四、異同傾向
「澪標」における諸写本十五本の異同に重みを付けた後、この諸本の相関関係がわかりやすいようにしたのが、次の〈図(1)〉のグラフである。
今回は、青表紙大島本と河内尾州家本それぞれに、その他の十三本を対校した。そして、異同の重み付けによってみた相関関係によれば、青表紙大島本でも河内尾州家本でもない丁度中間に位置する本文はないことがわかった。対校諸本のほとんどが青表紙大島本寄りであり、河内尾州家本の側に接近しているのが、高松宮本と各筆本であった。『源氏物語大成』が別本として採択本文を揚げなかったのも頷ける。しかし、そうだからといって、十三本がきれいに青表紙大島本と河内尾州家本の二グループに分かれるのかというと、本文の実体はそのように単純ではない。例えば、陽明本・東大本・麦生本は、大島本とは一割以上の隔たりがあり、尾州本とは三割近い距離をおく位置にあることがわかった。これらを、青表紙本とか河内本というグループの一つとして把握するのには無理がある。これまでのように、青表紙本でも河内本でもないものを一括して別本という名称で一応対処してきた経緯も頷ける。しかし、今はその方向でこの結果を了解するのではなく、視点を変えて見ていきたい。書写本文を分類するのが本稿の目的ではないからである。とにかく、各種本文の相対的な位相を定位することが急務なのである。
伝来する本文の様態からの各種書写本の位置づけが、本稿のさしあたっての目的であった。そこで次に、別の角度から検討を加えてみよう。
次の〈図(2)〉は、大島本と尾州本が対校基準本文とほぼ一致すると認定した語句の数をもとにした結果である。今回の階級値の設定で〈10〉〜〈6〉までに該当する重みを持つデータの数の比率を図にした。比校本文相互が一致する個数による近似度を見ようとしたものである。〈図(1)〉の加重相加平均によるものを垂直にそのまま上に引き上げたものとなっていることがわかる。強いて言えば、間隔が少し狭まっていることと、東大本と麦生本がやや遠ざかっていることであろうか。これでは、諸本間の相関関係はかえって分かりにくいといえよう。
次の〈図(3)〉は、加重相加平均の結果をもとにして、異同の質に注目してその近似性を見たものである。
〈図(2)〉が単純な同一語句の個数によるものであったのに対して、〈図(3)〉は、完全一致と不完全一致の階級値だけを加味したもので見た結果である。〈図(1)〉のほぼ一致とみなせる部分、つまり階級値の〈10〉〜〈6〉の部分だけを取り上げたものである。諸写本がどのようなパターンで一致しているのか、ということによるこの資料操作が、本文の位相を見る上では有効な尺度になっていることがよくわかると思う。
〈図(3)〉の逆に、〈図(1)〉の部分的異同と全体的異同に該当する個所、つまり階級値の〈5〉〜〈0〉の部分だけを取り上げたものは、用例総数に対するサンプル数が少ないことと、与えた階級値が低かったこともあって、諸写本の位相を見るにはその差異が読みとれないので適切な物差しではないことがわかった。したがって、この図は省略する。
結局、〈図(3)〉がもっとも諸写本の位相を示してくれるものであったといえよう。今後は、この手法によって諸写本の本文処理を行うことによって、各種本文の異同傾向を視覚的に確認できるはずである。このような手法によって、各種本文の位相が明らかになると考えている。
なお、さらに別の角度から異同傾向を見ることにしたい。保坂本と東大本を例にして、本文の親疎関係を見ていきたい。
五、保坂本と東大本
保坂本『源氏物語』は、東京国立博物館現蔵(保坂潤治旧蔵)で、その影印版が刊行されている(伊井春樹編、平成7年11月〜平成8年12月、おうふう)。東大本は、東京大学附属図書館(青州文庫)所蔵の『源氏物語』(請求記号E23.48)である。共に、いわゆる別本とされる本文を持つ巻が含まれている写本なのである。
ここでは、「澪標」を例にして、この二種類の本文の異同傾向をこれまでとは視点を変えて、より詳細に見ていきたい。拙稿「澪標巻の別本 ー東大本を中心にしてー」(『源氏物語小研究 創刊号』平成2年5月、源氏物語別本集成刊行会)を踏まえて、さらに本文異同を詳細に検討する。
まず、保坂本と東大本の本文を、書かれた文字に忠実に現代の用字と置き換え、各々を文節単位に対校し、異同別に分類した。分類にあたっては、次の項目をたてて、どの項目に該当するかを、いちいち判断した。設定した分類項目は、以下の通りである。
◎完全一致
●完全不一致
・仮名漢字の異同(保坂が漢字・保坂が仮名・異なる漢字・異なる仮名)
・送りがなの異同(保坂が送る・東大が送る)
・音便表記の異同(保坂の箇所・東大の箇所)
・語句有無の異同(保坂がナシ・東大がナシ)
・本文異同あり
自立語 (保坂が付加・保坂が脱落・ 品詞&活用)
付属語(保坂が付加・保坂が脱落・別語&活用)
接頭語の有無(保坂が付加・保坂が脱落)
・付加情報データ(/付きデータ)
本行本文完全一致
本行本文不完全一致(仮名漢字・送仮名・音便等許容)
本行本文異同あり
保坂の傍記→東大になる
東大の傍記→保坂になる
傍記本文異同あり(除b仮名漢字・送仮名・音便等)
異同を判定するにあたっては、次の点に留意した。まず、ナゾリの文字は異同なしとした。これは、最初に書いた本文を完全に抹消しようとする強い意識が認められるからである。また、「兵部の卿宮」「兵部卿の宮」の例は異なる仮名の異同例とした。「ゆひこん」と「ゆいこん」は、一応音便の中に入れておいた。
なお、一文節の中に複数の異同項目が含まれる場合は、それぞれの項目に加えた。したがって、「澪標」の全文節数と考察対象となる用例数は一致していない。
●本行本文b完全一致について
本行の本文が、保坂本と東大本相互で完全に一致する場合は、以下の通りである。
(1)本行本文の異同(重書は取りあげない)
Ab完全に語句が一致するかどうか
1b〈見消・傍記・補入の箇所を考慮した場合〉
完全一致 2703/3810(70.9%)
完全不一致 1107/3810(29.1%)
2b〈見消・傍記・補入の箇所を無視した場合〉
完全一致 2737/3810(71.8%)
完全不一致 1073/3810(28.2%)
傍記箇所があるのは、全体の約1%である。したがって、本行本文に関しては、傍記の有無は全体の異同傾向にあまり影響を与えないといえよう。
保坂本と東大本が本行本文において表記上、完全に一致する比率は、71%ということが確認できよう。
●本行本文b完全不一致について
表記上、完全に一致しないものは、全体の3割であることがわかった。その3割の用例を、さらに詳しく見てみよう。
Bb表記上ではほぼ一致する場合
(仮名漢字・送りがな・音便の異同を無視)
1b〈見消・傍記・補入の箇所を考慮した場合〉
不完全一致〈内訳b氈r3516/3810(92.3%)
〈内訳b氈r779例中15例が交互に重複
○仮名漢字の異同(640)内3例重複
・保坂が漢字(45)
・保坂が仮名(539)
ここから、保坂本は仮名書きする傾向が強い、ということがわかる。
・異なる漢字(4)
・異なる仮名(52)
漢字表記に関しては、ほぼ同一であるといえよう。
○送りがなの異同(79)
・保坂が送る(9)
・東大が送る(70)
送り仮名は、東大本の方が余分に送っている。
○音便表記の異同
・31b保坂の箇所(57)内12b31=4,14b31=1,
21b33=1,22b31=1
・32b東大の箇所(16)内12b32=3
不完全不一致 294/3810(7.7%)
2b〈見消・傍記・補入の箇所を無視した場合〉
不完全一致 3544/3810(93.0%)
不完全不一致 0266/3810(07.0%)
以上の調査から、見せ消ち・傍記・補入されている箇所を考慮に入れずに、本行の本文だけを見た場合には、保坂本と東大本は93%の一致を見せることがわかった。
●本行本文b異同の諸相
それでは、残りの7%の異同箇所について見ていこう。
Cb本文異同の諸相
1b語句有無の異同(20)
・保坂がナシ (10)
・東大がナシ (10)
2b本文異同あり (84)
・自立語 (29)
保坂が付加 (10)
保坂が脱落 (3)
品詞&活用 (16)
・付属語 (53)
保坂が付加 (24)
保坂が脱落 (13)
別語&活用 (16)
・接頭語の有無 (2)
保坂が付加 (2)
保坂が脱落 (0)
異同は、付属語によく見られるようである。その比率は、63%を占めている。
●傍記本文b異同の諸相
(2)付加情報のある例の諸相(224)
・本行本文完全一致 (34)
・本行本文不完全一致 (28)
(仮名漢字・送仮名・音便等許容)
・本行本文異同あり (162)
・保坂の傍記→東大になる (1)
・東大の傍記→保坂になる (136)
・傍記本文異同あり (25)
(除b仮名漢字・送仮名・音便等)
東大本の傍記本文は、それを本行本文に組み込むと、ほとんどが保坂本と一致する。比率にして84%もの多きに達している。つまり、東大本は保坂本の類の本文を有する本文で校訂している、といってよさそうである。逆に言えば、東大本の傍記本文を取り込んで作成した本文は、いわば保坂本に類する本文となることになる。保坂本の「浮舟」が欠帖になっている現在、この東大本の傍記本文を取り込んだものが推定本文として有力なものとなるのである。
以上の考察から明らかになったことは、次の3点である。
1.保坂本と東大本は、ほとんど同一(93%)の本文を持つものである。
2.両本の異同箇所(7%)のほとんど(63%)は、付属語に関するものである。
3.東大本の傍記のほとんど(84%)は、保坂本と同類の本文での校訂である。
この検討結果と既述の加重相加平均による保坂本と東大本の位相の違いを考えてみよう。加重相加平均による結果は、保坂本と東大本は極端に近接するようには見えなかった。保坂本と東大本の間には、国冬本・陽明本が割り込んだ形になっていた。ということは、保坂本と東大本の加重相加平均による尺度で見た距離は、右で検討した方法からの類推から総合して、七%くらいであるということができようか。
まとめ
これまでの検討の結果、大島本と尾州本の間のやや大島本寄りの一割ほど離れた所の一割の範囲内に、従来の基準でいう〈別本〉とされていた諸本が点在しているということがわかった。
これまでは、池田亀鑑氏の規範を踏襲して、青表紙本でも河内本でもないものを一括して別本という名称で一応対処してきた。違いを測る尺度や、違いを分別する基準を持ち合わせていなければ、こうした問題はパスせざるを得なかった経緯はあった。しかし、その状況が半世紀以上も放置されてままであった。これだけ受容者を抱える『源氏物語』である。唯一の本文にすがるのではなく、異なる物語世界を伝える本文を特定するための対処方法を提示してみたのが、本稿の手法である。といっても、書写本文を分類するのが本稿の目的ではない。新たな分類に着手するのではなく、伝来する各種書写本文の相対的な位相を定位することが急務であり、現在確認できる限りの本文の様態からの位置づけが本稿のさしあたっての目的である。本稿で、陽明本・東大本・麦生本・阿里莫本などの位相が、従来読まれていた本文とは少し外部徴証が異なるものであることを確認した。次は、各々の表現を丹念に読み解くことによって、そこに語られる内容の差異に気を配った読み方をすればどうなるかということを見ていくことになる。外部徴証と外部徴証の両面から物語を見ることによって、平安朝からは時間的にも空間的にも隔たった書写本文の位相が明らかになると考えている。
異本を読むという行為は、物語を受容する楽しみが倍加するものだと思う。微妙な語り口の違いが、書写本文の特質を浮かび上がらせてくれる。違いがわかることによる物語受容の楽しみを求めて、その前段階としての諸本の位相を定位するのが、私に科された当面の課題だと思う。本稿ですべて先送りした物語本文として語られる内部検証は、続稿で果たしたいと思う。
論考 |