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架蔵『探幽筆 三拾六哥仙』の復元

 『探幽筆 三拾六哥仙』は、平成5年春に伊藤がパリで見つけ、八人会(大森俊憲・公子、新谷栄一・香代子、井上大治・文、伊藤清子)の理解を得て、幸運にも輸入することができたものです。
 〈『36歌仙紛本画帖』〉と仮に呼ぶ本書は 、平安時代の著名な歌人36人の人物画が、B4版の大きさの和紙に書かれています。それがA3版大の厚紙に貼ってあるので、一枚ずつ手に取って見ることができます。鑑賞できると言いたいところですが、丹念に彩色を施された顔以外は、すべて墨書きとなっています。また、着衣には色付けの参考とするための、細かな色取りの指示が書き込まれています。これは、〈紛本〉とか〈模本〉といわれるものです。
 ここでは、『探幽筆 三拾六哥仙』の原画と、そこに記された指示通りに彩色を施したコンピュータ・グラフィックを展示します。いわゆる、彩色復元図です。詳細な解説は、拙稿「八人会蔵『探幽筆 三拾六哥仙』について」(『
大阪明浄女子短期大学紀要 第8号』1994.3.10)をお読みいただければ幸甚です。

歌仙絵の選択

・歌仙名は『探幽筆 三拾六哥仙』に記されたままの表記となっています。

 0・表紙 
01・柿本人丸(かきのもとのひとまろ)
02・紀貫之(きのつらゆき)
 03・凡河内躬恒 04・伊勢
 05・中納言家持 06・山辺赤人
07・有原業平(ありわらのなりひら)
08・僧正遍昭(そうじょうへんじょう)
 09・素性法師 10・記友則 11・猿丸大夫
12・小野小町(おののこまち)
 13・中納言兼輔 14・中納言朝忠
 15・権中納言敦忠 16・藤原高光 17・源公忠朝臣 18・壬生忠岑
 19・斎宮女御 20・大中臣頼基朝臣 21・藤原敏行 22・源重之
 23・源宗于朝臣
24・源信明朝臣(みなもとのさねあきらのあそん)
 25・藤原清正 26・源順 27・藤原興風
 28・清原元輔 29・坂上是則 30・藤原元真 31・小大君 32・藤原仲文
33・大中臣能宣朝臣(おおなかとみのよしのぶのあそん)
 34・壬生忠見 35・平兼盛 36・中務

〉〉01・柿本人丸(かきのもとのひとまろ)〈〈

 柿本人麻呂 生没年不詳。七、八世紀の歌人。官歴不詳だが下級官人であったと思われ、和銅元年(708)に没した従四位下柿本佐留はその親族か。『万葉集』に収める歌で年代の判明するものは天武九〜大宝元年(680‐701)で、持統・文武両天皇の行幸に従駕しての歌、草壁・高市皇子などへの挽歌などがあり、天皇・皇族の周辺で宮廷歌人として活躍。また畿内周辺、讃岐、筑紫などでの歌があり、地方官として各地に赴いたと思われ、晩年は石見に赴き、同地で没したという。『万葉集』には人麻呂作と明記するもののほか『柿本朝臣人麻呂歌集』から採られた歌が多数あり、そのすべてが人麻呂の作かは諸説あるが、我が国最古の個人歌集である。宮廷儀礼の中で詠まれた作品が多く、天皇を神聖視し、讃美する歌に特色があり、また雄大な構想のもとに作られた長歌など、和歌史上特に高く評価され、歌聖として崇められる。(『新潮日本人名辞典』)

〉〉02・紀貫之(きのつらゆき)〈〈

 貞観一二?〜天慶八/九(870?‐945/946) 平安中期の官人、歌人。望行の子。延喜初年(901‐)ころ御書所預、同六年越前権少掾、同七年内膳典膳、同一○年少内記、同一三年大内記、同一七年従五位下加賀介、延長元年(923)大監物、同七年右京亮、同八年土佐守、天慶三年玄蕃頭、同六年従五位上、同八年木工権頭。「寛平御時后宮歌合」(寛平五年〔893〕以前)など多数の歌合に加わり、延喜五年『古今集』の撰者を命ぜられ、その和歌論を述べた「仮名序」を作り撰述の中心となる。多くの屏風歌や算賀の歌を制作。同七年の宇多法皇の大堰川行幸には九題九首の歌と序を奏した。土佐守在任中に『古今集』の秀歌を抄出した『新撰和歌集』を撰述。承平四年末〜五年初(934‐935)の土佐からの帰京の時の日記が仮名文の最初の日記『土佐日記』である。家集『貫之集』があり、『古今集』に102首など勅撰集に452首入集。三十六歌仙の1人。(『新潮日本人名辞典』)

 

 

〉〉07・有原業平(ありわらのなりひら)〈〈

 天長二〜元慶四・五・二八(825‐880) 平安前期の官人、歌人。阿保親王の五男、母は伊都内親王。在原行平の弟。天長三年阿保親王の上表により、兄行平らと共に在原朝臣の姓を賜う。在中将、在五中将と称す。貞観五年(863)従五位上。左兵衛佐、右近権中将、右馬頭等を経て、同一五年従四位上。元慶三年蔵人頭。美男で性格は情熱的、学問の人ではないが和歌に優れた。業平をモデルに潤色も加えた恋物語が『伊勢物語』に見える。六歌仙・三十六歌仙の1人で、『古今集』以下の勅撰集に多くの歌が入集。(『新潮日本人名辞典』)

〉〉08・僧正遍昭(そうじょうへんじょう)〈〈

 弘仁七〜寛平二・一・一九(816‐890) 平安前期の官人、天台宗の僧、歌人。良岑安世の八男。俗名は良岑宗貞。花(華)山僧正と称される。蔵人頭に至ったが、嘉祥三年(850)仁明天皇の崩御に従い出家。斉衡二年(855)延暦寺に登り天台座主円仁に菩薩戒をうけ、安慧、円珍に師事して、貞観一五年(873)真言伝法阿闍梨位を受けた。仁和元年(885)僧正。貞観一一年元慶(花山)寺を発願、創建。常康親王の旧居雲林院を元慶寺別院とした。六歌仙、三十六歌仙の1人で、家集『遍昭集』があり、『古今集』以下の勅撰集に入集。(『新潮日本人名辞典』)

〉〉12・小野小町(おののこまち)〈〈

 生没年不詳。平安前期の歌人。出羽郡司の娘、小野篁の孫、小野美材・同好古の従妹などの諸説がある。『古今集』仮名序に美人の誉れ高いことがみえ、また歌人としても秀でた。文屋康秀、遍昭、凡河内躬恒、安倍清行、小野貞樹らとの交流があり、贈答歌が残されている。六歌仙・三十六歌仙の1人。『古今集』『後撰集』以下の勅撰集に入集。平安後期以来、好色な女、貴人との悲恋、零落した老女など、さまざまな伝説が付会され、殊に謡曲には『草子洗小町』『通小町』など多く採られた。(『新潮日本人名辞典』)

〉〉24・源信明朝臣(みなもとのさねあきらのあそん)〈〈

 延喜一○〜天禄元(910‐970) 平安中期の官人、歌人。源公忠の子。承平七年(937)蔵人となり、若狭、備後、信濃、越後、陸奥の国守を歴任。三十六歌仙の1人で、家集『信明集』があり、『後撰集』以下に入集。中務との歌がある。管絃の名人で、源博雅の猶子となり、琵琶を伝授される。(『新潮日本人名辞典』)

〉〉33・大中臣能宣朝臣(おおなかとみのよしのぶのあそん)〈〈

  延喜二一〜正暦二・八(921‐991) 平安中期の神祇官人、歌人。大中臣頼基の子。天暦五年(951)梨壺の5人の1人として『後撰集』の撰集に従事。天徳二年(958)神祇少祐、以後神祇大祐、神祇少副・大副を経て、天禄三年(972)伊勢神宮祭主となった。三十六歌仙の1人。『拾遺集』以下の勅撰集に入集、家集に『能宣集』がある。(『新潮日本人名辞典』)


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