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  八人会蔵『探幽筆 三拾六哥仙』について


                         伊藤 鉄也


    はじめに


 大阪明浄女子短期大学の文芸科では、海外研修旅行を毎春実施している。海外の文化を見聞することによって、自国と自分を見つめ直す機会を得ることを目的とするものである。平成五年三月上旬の十五日間、同行教員の一人として学生と共に、イギリス・ドイツ・イタリア・フランスを歴訪した。
 パリでの自由行動の日に、ソルボンヌ大学のあるカルチェ・ラタンからノートルダム寺院周辺を、一人気侭に散策した。そして、たまたま通りかかった古書店で見かけたのが、ここに紹介する『探幽筆 三拾六哥仙』である。この歌仙絵三十六枚は、本稿筆者が所属する〈八人会〉の所有に帰した。以下では、本書を〈八人会本〉と呼ぶこととする。
 〈八人会本〉には、平安時代の著名な歌人の人物画が、B4版の大きさの和紙に書かれている。それがA3版大の厚紙に貼ってあるので、一枚ずつ手に取って見ることができる。鑑賞できると言いたいところだが、丹念に彩色を施された顔以外は、すべて墨書きである。また、着衣には色付けの参考とするための、細かな色取りの指示が書き込まれている。
 これは〈紛本〉とか〈模本〉といわれるものであり、一般には次のように説明されている。
  紛本画巻・紛本画帖
  「紛本」とは下書きの絵のことであるが、修行や後の研究、参考の為に模写したものも、
  白描の下書き風のものが殆どであるので、これも「紛本」という。江戸時代は勿論、明治
  期までは、画家の修行の殆どは模写を中心とした所謂紛本主義であったので、今でも時と
  して夥しい「紛本」を見ることがあるわけである。(『日本古典書誌学総説』一二三頁、
  藤井隆、和泉書院)
 〈八人会本〉は、まさにこの〈紛本画巻〉〈紛本画帖〉ということになる。
 本稿は、この歌仙絵の研究資料としての〈八人会本〉の原形態と、その制作過程を考察するものである。

    一、八人会本の形態


 洋装仕立ての〈八人会本〉の製本は、実に立派である(図1)。

〈八人会本〉の外観

 本の大きさは、縦三九〇mm・横五〇〇mm。背皮には金の箔押しで、"PORTRAITS DES TRENTE-SIX GRANDS POETES JAPONAIS"とある。見返しはマーブル紙。『探幽筆 三拾六哥仙   軒』と記す紙を台紙に貼り付けたものを扉としている(図2)。

〈八人会本〉の扉

 扉以外は、背綴じのところから一頁ずつ鋭利な刃物で切り取られていた。展示するための処置であろう。計三十七枚の歌仙画集なのである。
 「探幽」とは、狩野探幽(一六〇二〜一六七四)のことである。狩野派は、江戸幕府の御用絵師として栄えた。特に、探幽以降の江戸狩野派は、臨写を基本とする紛本主義をとったことで知られる一大派閥である。〈八人会本〉の原本の筆者を探幽とする根拠は、今のことろはこの第一紙に「探幽筆」とある記載のみである。探幽は、鎌倉時代の『佐竹本三十六歌仙絵巻』が欠く、凡河内躬恒と紀貫之(位署と和歌)を補写するほどの実力者であった。多くの歌仙絵や縮図を残している。しかし、今はこれ以上に〈八人会本〉の筆者を確定する資料を持ち合わせていないので、「探幽」を伝称筆者名として了解するに留めておく。
 〈八人会本〉には、添付書類が二種類ある。収録されている人物名などを記したメモ書き四枚(注1)と、同種の内容と作品に対する短いコメントを付した用紙一枚(注2)である。
 本書に収録されている歌仙は、藤原公任(九六六〜一〇四一)の『三十六人撰』に見える歌仙名と較べると、掲載順と用字は異なるが、人名はまったく同一である。
 一枚の絵図の大きさは、おおよそ縦二六五mm・横三八〇mmほどで、B4版より一まわり大きいサイズである。この三十六枚の歌仙絵を敷き並べると、ちょうど三畳の部屋を埋める広さとなる。一枚ずつを横に繋いだ絵巻物のスタイルを想定すると、約十四mもの長さになる。この歌仙絵が、縦三四五mm(切断後)・横四八三mmの淡いブルーの厚紙の中央に、一枚ずつ貼ってある。
 画面中央には、人物画像が描かれている。その大きさは、平均の高さが一八六mm・横幅二四〇mm。有名な鎌倉時代の作品である『佐竹本三十六歌仙絵巻』の人物像の高さが一二〇mm・横幅一七〇mmほどなので、この〈八人会本〉は一まわり大きい人物画像になっている。歌仙の図様も、〈佐竹本〉の系統とは異なる構図である。
 なお、〈佐竹本〉にある「住吉大明神絵」は〈八人会本〉にはない。歌仙の官位や身分を記した位署や代表的な和歌もない。
 人物画は楮紙に書かれている。用紙は少し光沢のある薄い丈夫な紙で、筆の勢いがある時には擦れが出ている。
 人物の顔には、丹念に彩色を施してある。頭髪や眉や髭の一本一本に至るまで、丁寧に書かれている。顔のシワはもとより、瞳まで明瞭に入れてある。人麿には、一本一本の歯まで数えることができる。これに対して、首から下の体の線と衣服は、実にそっけない。原本を見ながら慎重に臨模したらしく、墨跡の滑らかさやスピード感は認められない。衣の模様は、その一部を描いているだけで、後は歌仙絵作成者が自由に仕上げることができるようになっている。図中には、色取りの指定がある。人麿には、「白」「うすきあさき」「うすきゑんしのく」などとある。色名・着色に関する指示は、詳細なものと、比較的簡略なものがある。斎宮女御における夥しい色取りの指示は圧感である(図3)。

斎宮女御の絵

 保存状態の良くないものが何点かある。一番破損被害の大きいものは平兼盛である(図4)。

斎宮女御の絵

 この平兼盛の図は、横幅が一番短い。歌仙絵が貼り付けてある台紙も、用紙の周囲がもっとも破損が激しいものとなっている。
 素性法師と猿丸大夫には、画面中央に三箇所にわたって大きな穴が認められる。
 用紙下部に破損箇所がある数枚には、裏から小紙片をあてがうことによって補修している。いわゆる〈膏薬貼り〉の修理がなされているのは、源公忠朝臣・権中納言敦忠・中納言兼輔・猿丸大夫・小大君・藤原興風・藤原清正である。
 全体に、裏打ちが杜撰なものが目につく。特に酷いものとしては、中納言家持がある。家持像の右側では、紙が七mmも重なったままで裏貼りされている。壬生忠見も、天中央から斜右下まで五mmも折り畳まれたままで貼り付けてある。
 裏打ちをする段階で、折れ曲がりやシワは伸ばしていない。直接本紙に糊を付ける〈直裏打〉をしているために、折り畳まれて摘める状態のものでも、しっかりとくっついている。〈投げ裏打〉といって、裏打ち紙の方に糊をつけて本紙の裏を覆うようにして貼り付ける手法の方が、一般には安全とされている。しかし、〈八人会本〉の場合、本紙の状態の点検と確認もそこそこに、さらには技術的に未熟であるにも拘らず〈直裏打〉をしているのである。ところどころ、本紙が裏打ち紙から浮き上がっている。伊勢は、本紙の三分の二を裏打ち紙から容易に剥がすことができた。糊の塗りムラによる経年変化が、顕著に認められるのである。古文書の補修に関する知識と技術に乏しい素人が、とにかく補強と保存のために裏に紙貼りをしただけ、という印象がある。
 裏打ちした歌仙絵を厚紙の台紙に貼るにあたっては、ボンドと思われる接着剤を使用している。それも、紙からはみ出すほどのものや、付けすぎて盛り上がっているものもある。

    二、配列と巻頭部


 洋装本に仕立て直された"PORTRAITS DES TRENTE-SIX GRANDS POETES JAPONAIS"が、『探幽筆 三拾六哥仙』と呼ばれていた時の原形を考えよう。巻子本か折本か冊子本か、ということである。
 これは、虫損箇所の位置を丹念に調べればよい。もとの形式がわかれば、虫損・切り口・紙シワ・墨汚れなどから、各絵の配列順序が復元できるはずである。
 表紙に続く歌仙絵三十六枚の虫損を調べると、その位置と間隔が規則的なものであることがわかった。
 例えば、藤原敏行と斎宮女御を並べてみよう。共に上から四十〜四十三mmの所に十mm程の虫損が四箇所ずつある。この間隔が一二四mm〜一二七mmである(図3)。また、藤原敏行の右端の虫損と斎宮女御の右端の虫損とを接合させると、その前後と矛盾なく一致する。さらには、斎宮女御の左端上部にある直径七十mmの丸いシミは左端部五mm分が欠けているが、これは源公忠朝臣の右上部のシミと一体になる。源公忠朝臣にも上から四十二mmの位置に一二三mmの間隔で斎宮女御より小さい虫損が横一列に三つ並んでいる。この虫損は徐々に小さく、そして一、二mmずつ間隔を狭めながら中納言朝忠へ続き、藤原高光に達して消滅している。
 虫損の間隔が一定であるということは、それが巻物の形態であった時のものであることになる。そして、穴の大きさやその間隔から、歌仙絵の並んでいた順序も明らかになる。つまり、右から左へと、藤原敏行→斎宮女御→源公忠朝臣→中納言朝忠→藤原高光という配列順だったのである。左右の切り口も丹念に調べていくと、ほとんどの歌仙絵の相互関係がわかった。切り口が杜撰だっただけ、復元作業は楽だった。
 このようにしてそれぞれの歌仙絵の前後の位置関係を並べてみると、これが添付書のメモに記載されていた順番と一致するのである。
 破損の激しい平兼盛の絵図が、実は本書の巻頭だったことになる(図4)。平兼盛像の右側四分の一が欠損しているのは、表紙が付く以前に、頻繁に本書を取り出すことがあったためであろう。平兼盛の本紙の横幅は、中央の最長部が二七四mm・下部二一〇mmである。〈八人会本〉の各本紙の平均横幅は三八三mmなので、約一一〇mm〜一七〇mm分が欠けていることになる。これはまさに、一般的な巻子本の外周に相当する長さである。
 その欠落部分に、歌仙名を記した別紙が裏打用紙に直接貼り付けてある。また、畳の上辺右側部分も、追加として別紙の切り取りが貼ってある。共に、裏打ちに使用した紙と同質のものである。痛んだ巻頭部を補修した時の細工であろう。この時に、表紙が取り付けられたと思われる。平兼盛の右端の切断面が不自然なのは、表の軸巻を付ける部分が千切れたためであろう。現存の表紙と見較べると、その幅も切り口もほぼ接合部分が符合する。
 画面下部にある畳を示す線の下に、この平兼盛一枚だけは、波の模様が描かれている。平兼盛以降の歌仙絵でサッと線引きされただけの簡略化された畳とその下部は、この巻頭で指示された通りに描けばよいのである。畳の下に波文を描いたものとしては、狩野山楽筆『三十六歌仙図帖』(桃山時代)・狩野孝信筆『三十六歌仙図額』(一六一八年作、徳川美術館)・岩佐勝以筆『三十六歌仙絵扁額』(一六四〇年作、川越東照宮)などがある。そして、京都大学文学部博物館所蔵の柿本人麻呂像(江戸前期)にも、畳の下に波文が描かれている。人麻呂像については、次のような解説がなされている。
  通例神社に奉納される歌仙額に見られる、波文の上の上畳に坐す姿で描かれており、本像
  も本来歌仙額として制作されたものではないかとかんがえられる。(『日本肖像画図録』
  一〇五頁、京都大学文学部博物館、思文閣)
 〈八人会本〉の原画と、その紛本としての本書の性格を考えるにあたっては、右の歌仙額の可能性が多分にあるように思われる。なお、記(ママ)友則の左下には、本紙と裏打ち紙との間に、平兼盛の波文の左下端部の断片が貼り込まれている。この小紙片は、平兼盛の左下の欠落を完全に補完するものである(注3)。なぜこんな場所にあるのか、その理由は不明である。

    三、表紙と表題


 表題にあたる『探幽筆 三拾六哥仙 軒』とある紙(図2)と、三十六枚の歌仙絵との関係を検討したい。
 扉にあたる表紙は、縦二七一mm・横二一八mmで、台紙を縦にして貼り付けている。この表紙の裏打ちは、三枚打ってある。表紙の縦の寸法は、三十六枚の歌仙絵と同じである。しかし、紙質は少し異なるようである。表題は、上二十三mm・下十八mm・左二十三mm内側の位置に書かれている。
 巻子本の表紙については、次のように言われている。
  表紙は俗に袖という。
  巻いた時に外になる方が表で、内になる方を裏と称する。この裏を又ふところという。
  表紙の長さは一巻半か二巻の長さとなる。又、本紙との継ぎ方は左重ねにする。
  (『表具のしおりー表装の歴史と技法』二二六・二三二頁、山本元、芸艸堂)
 実際に現物をコピーして、〈八人会本〉の巻子本形式の複製版を作ってみた。太さは直径四十五mmほどになった。表紙の横幅は二三〇mmなので、ほぼ一巻半の長さとなる。したがって、この『探幽筆 三拾六哥仙 軒』と書かれた紙は、〈八人会本〉の歌仙絵三十六枚の表紙であったものと見てよかろう。これは、第一番平兼盛の冒頭部の修理にともなって、全三十六枚の裏打ち補強を行なった際に取り付けられたものと推測したことは、前述の通りである。表紙左端の切断面も、平兼盛の裏打ち紙の右端の切断面と一致する。
 表紙右側の本紙と接合する部分を除く三方にある、くっきりとした折り跡のうち、左端から十二mm内側にあるものは、次の〈八双付け〉の説明と符合する。
  端から一二ミリ(四分)の所へ裏に千枚通しで筋を入れ(紙は骨へらで付ける)、一八ミ
  リ(六分)位の幅に糊付けをし、八双を一二ミリ(四分)の方の外側へ竹の皮の方を下に
  して筋にそって置き、ー下略ー
  (『古文書修補六十年ー和装本の修補と造本』六四頁、遠藤諦之輔、汲古書院)
古来の手法そのままに、この表紙は仕立てられている。ただし、上十一mm・下二mmの位置にある折れ筋と、内側になる裏がどのようになっていたかはわからない。この折れ筋は、あるいは〈八人会本〉の表紙にされる前の時のものかもしれない。なお、左上端が上下二十三mmのところで斜にカットされている。冊子本の表紙の折り込み部分であったようだが、この理由もわからない。もし、探幽筆とされる歌仙絵と関連する冊子本の表紙だったものを、軸巻の表紙に転用したとすると、元の冊子本は、各歌仙の和歌などを記したものだったかもしれない。歌仙絵を描いた後に、その右か上部に和歌を書く職人のための資料だったものではないか。そんな可能性があることも、指摘しておく。
 〈八人会本〉が探幽筆とされて来たことを信ずるならば、それは、探幽筆の三十六歌仙絵を模写したということになる。添付書類におけるフランス語の説明によると、「軒某」という人物によって模写された探幽筆の三十六歌仙となっている。しかし、この「軒」なる記載は、人名ではなく、いくつかあった探幽筆とされる『三十六歌仙』のうちの識別記号だと思われる。「甲」「乙」の類である。探幽筆百人一首の東京国立博物館本(画帖)に記される「百人一首画像探幽筆 完」や、同じく南葵文庫本(二冊本、但し、もとは巻子本)の「探幽斎図百人一首 乾」などの「完」「乾」からも、「軒」は人名ではなくて、整理管理上の覚書のようである。

    四、制作過程と伝来形態の変遷


 〈八人会本〉が巻物の形をしていた時期に虫に喰われたことと、その時の歌仙絵の配列、および表紙の形状がわかった。次に、この紛本絵巻の制作過程と伝来形態の変遷を考えてみよう。
 本歌仙絵には、親本とでもいうべきものが存在したはずである。それは、彩色されたものであり、それを参考にして色取りの指示や衣の模様が書き込まれたと思われる。本歌仙絵の模写者が見た原画も、本歌仙絵をもとにして作成された作品も、現在のところは確認できていない。しかし、本絵図を調べていくと、いろいろなことが推測できる。
 まず、原画を模写するにあたっては、水を含ませた筆で一枚の楮紙に歌仙の姿をなぞったようである。それは、衣を描いた線の周囲にうっすらと残る輪郭線が確認できるからである。薄くなぞった後に、衣を書いたのである。現在のところ、一応私は、板絵として掲げられていた〈扁額歌仙絵〉を想定している。丁寧に書かれた彩色した顔の筆は、体を描いたものとは明らかに違っている。顔を描いた後に、体を書き、そして色名などの書き込みをしたと思われる。
 なお、京都大学文学部博物館所蔵の伊藤仁斎像(模本)と平山子龍像(模本)は、共に頭部を詳細に写し取った紙を、人物画の上に貼り付けている(前掲書五七・六二頁)。特に仁斎の場合は、貼り付けられた頭部の肩から続く体の線は、〈八人会本〉よりも簡単な筆の運びで流し書きにしている。いずれも江戸時代後期のものと思われる。人物画の模写にあたっては、多数の紙形を描き、最適なものを選んでいたようである。特に、顔には神経を使っている。
 肖像画の技法に、似絵というものがある。これは、着衣よりも顔を写実的に描くことに力点が置かれている。似絵の名手であった藤原信実の父隆信(一一四二〜一二〇五)も、肖像画を得意としていた。女院と院の御所の障子絵を描くにあたっては、隆信が顔だけを描き、その他は絵師の常盤光長が描いたという記録がある(『玉葉』承安三(一一七三)年九月九日条、『特別展やまと絵 雅の系譜』一八頁、松原茂、東京国立博物館)。
 三十六歌仙絵は、平安時代の歌人を扱う。顔の模写にあたっては、原画を精密に写し取った方がかえって再現性の高いものになる、と判断されたのではなかろうか。
 一枚ずつの紙を継ぎ合わせる前に、各歌仙を描いた紙を裁断した跡がうかがえる。壬生忠岑の中央左端の畳の線が、バッサリと切り落とされ、小大君の畳の線の左端も少し切断されている。一枚ずつの楮紙を原本に被せるようにして歌仙絵の構図を写し取り、顔を克明に仕上げてから、体を描いて色取りを記入する。次に畳の線を書いた後、三十六枚の紙の左右の端を切り揃える作業を経て、紙を継ぎ合わせていったようである。
 また、伊勢の左上端にあたる継目の下に残された墨の汚れは、次の赤人の右上端の汚れの続きが、紙継ぎ後の切断によって残存したものである(注3)。山辺赤人の歌仙名が人物画の六十mm右上にあり、歌仙名の右三十五mmに墨の汚れがある。とすると、この墨の汚れは紙の継ぎ合わせ以前においての、歌仙名を書いた時に付いたものと考えることも可能である。ただし、歌仙名は複数の手になるものである。原本から一枚の和紙に歌仙の姿を写し取った際に、歌仙名も書かれたことになろうか。そして、紙継ぎをする。全長十四mの模本の完成である。ただし、表紙に「探幽筆 三十六哥仙 軒」とあるものと平兼盛以下多くの歌仙名は、おそらく同筆と思われる。すると、歌仙名が書かれたのは、裏打ち補修の時ということになる。それなら、それまで各歌仙の名前をどのようにして識別していたのだろうか。この問題は、今は保留とせざるをえない。
 いずれにしろ、私は次の理由から、最初は五mほどの巻紙三本の形式ではなかったかと想像している。それを、歌仙絵作画の際に、手本・紛本として作業場に置いて利用していたのではないかと。
 そう考える理由は、凡河内躬恒の左端が上から覆うようにして紙片が貼られており、その下部には厚紙が付着していること。その凡河内躬恒と次の藤原仲文の切断面を接合させると、裏打ちに大きなズレが生ずる。また、中務は左端四十五mmを裏から補強しており、その左側は縦に墨の汚れが広がっている。そして、その左端上下が極端に縮まっている。これは、左端に水がかかったためであろうか。さらに源宗于朝臣では、左端に紙継ぎの切断紙片がないのである。これらの状態から、平兼盛から凡河内躬恒までの十二人と、藤原仲文から中務までの十三人、そして紀貫之から源宗于朝臣までの十一人の、都合三巻仕立として利用・保管されていた時期が長かったことを想定してみたい。そうでないと、中務の紙面の左側が極端に黒ずんで汚れていることなどの説明がつかないのである。
 絵巻物といわれるものは、一巻の縦幅は三〇〇mm前後で、長さは十mくらいのものが一般的である。『吉備大臣入唐絵詞』が二十四mもあるのは例外である。〈八人会本〉が〈紛本画巻〉といわれる下絵集であった性格からも、縦二六〇mm、長さ五mくらいのもの三つを適宜広げながら歌仙絵を作成していたと考えるのは、決して不自然ではないと思う。実寸で示せば、第一巻四・五m、第二巻五m、第三巻四・三mという長さになる。
 画面下部に大きな損傷のあるものが目につく。柔らかい紙を広げて利用されていた実用上の機能から生じたものであろう。特にひどいものには、〈膏薬貼り〉といわれる補修が施されている。破れたり痛むと、このように補修しながら使ったのであろう。猿丸には、〈膏薬貼り〉の補修後に虫に喰われた箇所がある。本歌仙絵が裏打ちによって全面的に補強されるまでは、相当の期間があったか、保管状態が悪かったことが推測される。
 また、本紙の裏には、多くの墨の汚れが残っている。作業場で使用中に、巻かれていた紙の裏側に筆が当たることが、多々あったのであろうか。
 裏打ちによる補強手段が取られたのは、おそらく絵書き職人集団関係者で素人によるものと思われる。絵図に対する態度が粗雑であるからといって、これを海外においてのこととする必要はない。裏打ち前に行なわれたと思われる紙の継ぎ合わせ部分にも、貼り付けの際のズレが多いからである。確かにこの装丁は、技術的には稚拙である。しかし、専門職人集団にとっては、実用目的での補強であり、書き込まれた色取りの指示や顔が確認できたらよかったのかもしれない。折り畳まれて裏打ちされた箇所は、衣の線が書かれた場所であり、実害のない部分であった。
 裏打ちにあたって、源宗于朝臣の後の最終部分にあった尾紙ははずされたようである。もっとも、紛本であるために、この尾紙に相当する部分に、奥書や跋などはなかったのであろう。

    五、歌仙絵の切断


 さて、〈八人会本〉の原形であった〈紛本画巻〉の切断についてである。この一枚ずつの切断面は実に杜撰きわまりない。刃が二度三度と入った跡が顕著に残っている。切り口も、右へ左へとカーブしている。すべてに〈定木〉は用いなかったようである。ここからは海外で行なわれたであろうことは、ほぼ間違いない。切り直しの跡や、紙継ぎのところが捲れたままで切断したりもしている。
 切断した後に、各歌仙絵の下部右寄りの位置に、鉛筆で通し番号を記入したようである。これが切断後だと言えるのは、記入された数字の訂正が、五枚にわたってなされているからである。3→4、4→5、5→6、6→7、6→8と、一つずつ順番をずらしている。三枚目の大中臣能宣朝臣が抜かされ、また「6」が二度も記入されたのは、巻子本の状態では起こり得ないことである。切断時に歌仙絵の順番が前後したために生じた、単純な記入ミスと考えてよかろう。当然、この番号と添付書類のメモ書きとは一致している。ただし、本紙に書き込まれた数字と、二種類のメモの字体とは、あきらかに異なっている。
 この想定以外には、製本後、各頁を切り離した時に、メモをもとにして番号を付した、とも考えられる。しかしそれならば、本紙ではなくて台紙の方に記入したことであろう。この切断と台紙への貼り付けは、時間的に接近した時期に行なわれたと思われる。平兼盛のところの「1」は、裏打ち紙に直接記入されている。もっとも、源順だけは歌仙絵の中にはなくて、下部の台紙の方に「21」と書かれている。単純に、書き忘れていたものを台紙に記入したものとしておく。源重之は、画中と台紙の両方にそれぞれ別筆で「19」と書かれている。画中の数字が薄くなっているので、台紙に書き直したようである。
 これら一連の作業は、製本をした国(フランス?)でのできごとだと思われる。台紙に歌仙絵を貼り付けるのに、強力なボンドを使用しているところに、本と紙に対する文化的な相違を痛感する。
 このようにして完成した"PORTRAITS DES TRENTE-SIX GRANDS POETES JAPONAIS"と題する『探幽筆 三拾六哥仙』は、その後どのような手を経たかはわからない。とにかくパリの古書店に落ち着き、そして八人会が所蔵するものとなったのである。

    おわりに


 『探幽筆 三拾六哥仙』は、〈三十六歌仙絵巻〉または〈三十六歌仙扁額〉を制作するにあたって用いた、絵の手本としての〈紛本画巻〉だと思われる。狩野探幽は多くの模本を残している。しかし、これはその探幽の手になる模本の一つではなく、〈探幽筆三拾六哥仙絵〉を模写したものと考えられる。もちろん、絵巻からとは限らず、歌仙額からの可能性も高いと思っている。
 〈八人会本〉は保存・備忘・研究のための模本ではなく、実際に利用・活用された紛本である形跡が多々認められた。ただし、この〈八人会本〉をもとにして描かれた一式の歌仙絵は、現在のところは確認できていない。探幽筆とされている背景ともども、さらに検討を続けていきたい。
 本三十六歌仙の構図を子細に見ると、いろいろのことがわかる。
体と顔の向きを、藤原公任が『三十六人撰』であげた順番に並べると、二人ずつが向かい合う形となる。歌仙の配列については、他本の歌仙絵と比較するとおもしろい。各人物における「体の向き」「被り物」「持ち物」および「顔の向き」「視線」「手」「足」「耳」「髭の有無」「座り方」についても、〈佐竹本〉をはじめとする諸本との比較研究は、残された課題である。〈八人会本〉と同じ図様の三十六枚一式の絵画群が、一般に公開されているものの中には見あたらない。その点からも、本書の資料的価値は認められよう。
 探幽自筆の各種歌仙絵と〈八人会本〉との比較は、これも稿を改めたい。探幽自筆『百人一首手鑑』中の小野小町と在原業平は、〈八人会本〉における図様と類似するところがある。〈八人会本〉の小野小町と在原業平との二点を、コンピュータグラフィックを活用して着色を試みた。今は、彩色復元したカラー図版を示して(注4)、推測を重ねることに終始した私見を終えることとしたい。

注1 フランスの書店用図書予約票(ピンク色のA5版)四枚の裏側に鉛筆で記されたメモは、次の通りである(大カッコはミセケチによる修正を示す。)。

title
dessinateu (ママ)
Tanyu shitsu(探幽筆)
Sanjurokkasen
(36 peots)(ママ)
ecritee avec Ken(ママ)
1)Taira-no-Kanemori
2)Kakimoto-no-hitomaro
3)Otomo-no-yoshinori
4)Fujiwara-no-toshiaki
5)Saigu-no-nyogo(?)
(Iminomiya)
6)Minamoto-no-masatada
7)Chunagon-tomosuke
8)Fujiwara takamitsu
9)Ariwara-no-narihira
10)Soshohoshi
11)Chunagon-Yiyemochi
12)Okochino-mitsune
13 Fujiwara-no-nakahisa
14)Mibu-no-tadami
15)Fujiwara-no-mototada(?)
16)Chunagon-toshisuke
17)Chunagon-Tomiura(?)
18)Mibuno-tadasuke
19)Minamoto-no-shigeyuki
20)Minamoto-no-nobuaki
21)Minamoto-no-jyun
22)[sho]Sojo-henjo
23)Onakatomi-no-yorimoto
24)Onono komachi
25)Chuze ?
26)Kino tsurayuki
27 Sarumarudayu
28 Kiyoharamotosuke
29 Ise
30)Yamabeno akashito
31 Kino-tomonori
32 Syotaikun ?
33)Sakanoue-no-Korenori
34)[△]Fujiwara-no-tomokaze(?)
Fujiwara-no-Kiyomasa
35)Minamoto-no-mune「「?

注2 書店台帳(B4版)の切り取りと思われる紙片の表裏には、万年筆で次のように記されている(カッコ内は鉛筆書きによる補入文字。これは注1の裏書メモを転載しているようである。大カッコはミセケチによる修正を示す。各歌仙名の次行の日本語は、参考として私に付したものである)。

  (17 Siecle)
Description du Texte et des portraits
Titre Trente Six Poetes excellents dessines par Kano Tanyu reproduits par Ken(nom inacheve)
- Portraits - (poetes des XVII Siecle)
1 Taira(no)Kanemori
 平兼盛(たいらのかねもり)
2 Kaki[mo]moto no hitomar[a](o)
 柿本人丸(かきのもとのひとまろ)
3 Yoshinobu Ason(Otomo no Yoshinori)
 大中臣能宣朝臣(おおなかとみのよしのぶのあそん)
4 Foujiwara(no)Toshiyuki(toshiaki)
 藤原敏行(ふじわらのとしゆき)
5 Shinoju Nyogo(Saigu no Nyogo(?))
 斎宮女御(さいぐうのにょうご)
6 Minamoto Kimitada
 源公忠朝臣(みなもとのきんただのあそん)
7 Tchiunagon Tomotada
 中納言朝忠(ちゅうなごんあさただ)
8 Foujiwara Takamitsu
 藤原高光(ふじわらのたかみつ)
9 Ariwara Narihira
 有原業平(ママ)(ありわらのなりひら)
10 Sujo Hoshi
 素性法師(そせいほうし)
11 Tchunagon Yakamochi
 中納言家持(ちゅうなごんやかもち)
12 Mitsune Ootchikotchi
 凡河内躬恒(おおしこうちのみつね)
13 Nakatsugu Foujiwara
 藤原仲文(ふじわらのなかぶみ)
14 Mibuno Tadami
 壬生忠見(みぶのただみ)
15 Foujiwara Moto...?
 藤原元真(ふじわらのもとざね)
16 Gon Tchunagon Atsutada
 権中納言敦忠(ごんちゅうなごんあつただ)
17 Tchunagon Kanesuke
 中納言兼輔(ちゅうなごんかねすけ)
18 Mibuno Tadamine
 壬生忠岑(みぶのただみね)
19 Minamoto no Shigeyuki
 源重之(みなもとのしげゆき)
20 Minamoto no Nobuaki
 源信明朝臣(みなもとのさねあきら)
21 Minamoto no Sunao
 源順(みなもとのしたごう)
22 Sojo Henjo
 僧正遍昭(そうじょうへんじょう)
23 Onakatomi Yorimoto Ason
 大中臣頼基朝臣(おおなかとみのよりもとのあそん)
24 Ono no Komatchi
 小野小町(おののこまち)
25 Nakatsukasa
 中務(なかつかさ)
26 Ki no Tsurayuki
 紀貫之(きのつらゆき)
T.S.V.P(本稿筆者注:裏面へ続く)
27 Sarumaru Dayu
 猿丸大夫(さるまるだゆう)
28 Kiyowara no Motosuke
 清原元輔(きよはらのもとすけ)
29 Isse
 伊勢(いせ)
30 Yamabe no Akashito
 山辺赤人(やまべのあかひと)
31 Ki no Tomonori
 記友則(ママ)(きのとものり)
32 ? (Shotai Kun)
 小大君(こおおぎみ)
33 Sakanoue no Mitchinori
 坂上是則(さかのうえのこれのり)
34 Foujiwara no Sadakado
 藤原興風(ふじわらのおきかぜ)
35 Foujiwara no kiyotada
 藤原清正(ふじわらのきよただ)
36 Minamoto no mune...?
 源宗于朝臣(みなもとのむねゆきのあそん)
_PS.Les signes japonais portes dans les vetements
ou exterieur ement, donnent la Signification des
couleurs de chaque partie ou de chacun deux.
Document du phus haut interet.

・con・・ ・・ de la litterature japonaise publiee chez
Malfere.  (本稿筆者注:別筆鉛筆書き、冒頭部不明)

 これを見て興味深いのは、本紙の方がより正確に読めているにしても、海外における漢字表記の人名の判読がいかに難しかったかが知られる。「藤原仲文」「藤原元真」「小大君」「藤原興風」「源宗于」は読めていない。おそらく、これは日本人が介在していないためでもあろう。なお、この記録に鉛筆でメモを補入した人物は、三十六歌仙を探幽と同時代(十七世紀)の歌人だと誤解している。この補入文字は、注1にあげた予約票裏のメモ書きとは、その字体を異にする。また、本紙文末では、この絵が模本であり、記入されている文字が色取りであることを指摘している。さらには、資料的価値が高いことまで言及しているのである。

注3 拙稿「伝『探幽筆 三拾六哥仙』の画像データベース化と原本復元」(『人文科学とコンピュータ 研究報告 No.18』平成5、情報処理学会)では、コンピュータを活用して、平兼盛の欠落部分の補完と、猿丸大夫→清原元輔→伊勢→山辺赤人→記友則という配列順の確認をした。また、表紙と平兼盛の接合に関しても、コンピュータ・グラフィックを活用した鏡像処理による左右反転画像を用いて、それらが整合することも検証した。(追記:なお、小野小町と有原業平の彩色復元図は、本〈源氏物語電子資料館〉の第3室-画像・映像・音声コーナーの画廊〈歌仙絵〉に掲載している。)

注4 〈八人会本〉の着色復元の詳細については、情報処理学会 第20回・人文科学とコンピュータ研究会(平成5年11月26日・於岡山大学)で「伝『探幽筆 三拾六哥仙』の画像データベース化と原本復元」と題して研究発表した。注3にあげた拙稿は、その時のものである。また、歌仙絵の画像データベースについては、拙稿「小野小町データベース〈図像編〉私案」(『人文学と情報処理3』平成6、勉誠社)を参照願いたい。

〈付記〉 『探幽筆 三拾六哥仙』の調査は、〈八人会〉のメンバー(大森俊憲・公子、新谷栄一・香代子、井上大治・文、伊藤清子)の理解と協力によるものである。また、パリの書店との交渉にあたっては、川田隆雄・修、高野了吉各氏の、フランス語訳は橋本彰子氏のお世話になった。
 なお、稿を成すにあたって、伊井春樹・奥平俊六・岡嶌偉久子各氏のご教示により、推論過程の多くを補訂できた。しかし、依然として資料的価値ともども、多くの問題を残したままである。歌仙と絵画という二つの研究課題を与えてくださった諸氏諸先生方に厚くお礼申し上げ、記して感謝の意とさせていただく。
                   (平成五年十月二十七日脱稿・十二月十九日補訂)


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