保坂本『源氏物語』は、東京国立博物館現蔵(保坂潤治旧蔵)で、その影印版が刊行中である(伊井春樹編、平成7年11月〜平成8年10月、おうふう)。東大本は、東京大学附属図書館(青州文庫)所蔵の『源氏物語』(請求記号E23.48)である。共に、いわゆる別本とされる本文を持つ巻が含まれている写本なのである。
本稿は、「澪標」を例にして、この二種類の本文の異同傾向をまとめたものである。前稿「澪標巻の別本 ー東大本を中心にしてー」(『源氏物語小研究 創刊号』平成2年5月、源氏物語別本集成刊行会)を踏まえて、さらに本文異同を詳細に検討するものである。
まず、保坂本と東大本の本文を、書かれた文字に忠実に現代の用字と置き換えた。仮名遣いはもとより、補入・見せ消ちも、正確に読み取って対校した。これは、『源氏物語別本集成』の本文翻刻と同じ方針である。
次に、保坂本と東大本を、文節単位に対校し、異同別に分類した。分類にあたっては、次の項目をたてて、どの項目に該当するかを、いちいち判断した。設定した分類項目は、以下の通りである(頭部に付した数字は、分類識別のための符号として用いている)。
◎完全一致
●完全不一致
10-仮名漢字の異同
11-保坂が漢字
12-保坂が仮名
13-異なる漢字
14-異なる仮名
20-送りがなの異同
21-保坂が送る
22-東大が送る
30-音便表記の異同
31-保坂の箇所
32-東大の箇所
50-語句有無の異同
51-保坂がナシ
52-東大がナシ
60-本文異同あり
61-自立語
+保坂が付加
−保坂が脱落
* 品詞&活用
62-付属語
+保坂が付加
−保坂が脱落
* 別語&活用
64-接頭語の有無
+保坂が付加
−保坂が脱落
80-付加情報データ(/付きデータ)
81-本行本文完全一致
82-本行本文不完全一致(仮名漢字・送仮名・音便等許容)
83-○○ 本行本文異同あり
85-保坂の傍記→東大になる
86-東大の傍記→保坂になる
87-傍記本文異同あり(除-仮名漢字・送仮名・音便等)
異同を判定するにあたっては、次の点に留意した。まず、ナゾリの文字は異同なしとした。これは、最初に書いた本文を完全に抹消しようとする強い意識が認められるからである。また、「兵部の卿宮」「兵部卿の宮」の例は異なる仮名の異同例(14)とした。「ゆひこん」と「ゆいこん」は、一応音便の中に入れておいた。
なお、一文節の中に複数の異同項目が含まれる場合は、それぞれの項目に加えた。したがって、「澪標」の全文節数と考察対象となる用例数は一致していない。
本行の本文が、保坂本と東大本相互で完全に一致する場合は、以下の通りである。
・本行本文の異同(重書は取りあげない)
A-完全に語句が一致するかどうか
1-〈見消・傍記・補入の箇所を考慮した場合〉
完全一致 2703/3810(70.9%)
完全不一致 1107/3810(29.1%)
2-〈見消・傍記・補入の箇所を無視した場合〉
完全一致 2737/3810(71.8%)
完全不一致 1073/3810(28.2%)
傍記箇所があるのは、全体の約1%である。したがって、本行本文に関しては、傍記の有無は全体の異同傾向にあまり影響を与えないといえよう。
保坂本と東大本が本行本文において表記上、完全に一致する比率は、71%ということが確認できよう。
表記上、完全に一致しないものは、全体の3割であることがわかった。その3割の用例を、さらに詳しく見てみよう。
B-表記上ではほぼ一致する場合
(仮名漢字・送りがな・音便の異同を無視)
1-〈見消・傍記・補入の箇所を考慮した場合〉
不完全一致〈内訳-・〉3516/3810(92.3%)
〈内訳-・〉779例中15例が交互に重複
○仮名漢字の異同(640)内3例重複
・11-保坂が漢字(45)内11-12=3
・12-保坂が仮名(539)内11-12=3,12-22=2,
12-31=4,12-32=3
ここから、保坂本は仮名書きする傾向が強い、ということがわかる。
・13-異なる漢字(4)
・14-異なる仮名(52)内14-31=1
漢字表記に関しては、ほぼ同一であるといえよう。
○送りがなの異同(79)
・21-保坂が送る(9)内21-31=1
・22-東大が送る(70)内12-22=2,22-31=1
送り仮名は、東大本の方が余分に送っている。
○音便表記の異同
・31-保坂の箇所(57)内12-31=4,14-31=1,
21-33=1,22-31=1
・32-東大の箇所(16)内12-32=3
不完全不一致 294/3810(7.7%)
2-〈見消・傍記・補入の箇所を無視した場合〉
不完全一致 3544/3810(93.0%)
不完全不一致 0266/3810(07.0%)
以上の調査から、見せ消ち・傍記・補入されている箇所を考慮に入れずに、本行の本文だけを見た場合には、保坂本と東大本は93%の一致を見せることがわかった。
それでは、残りの7%の異同箇所について見ていこう。
C-本文異同の諸相
1-語句有無の異同(20)
・保坂がナシ (10)
・東大がナシ (10)
2-本文異同あり (84)
・自立語 (29)
+保坂が付加 (10)
−保坂が脱落 (3)
* 品詞&活用 (16)
・付属語 (53)
+保坂が付加 (24)
−保坂が脱落 (13)
* 別語&活用 (16)
・接頭語の有無 (2)
+保坂が付加 (2)
−保坂が脱落 (0)
異同は、付属語によく見られるようである。その比率は、63%を占めている。
・付加情報のある例の諸相(224)
・本行本文完全一致 (34)
・本行本文不完全一致 (28)
(仮名漢字・送仮名・音便等許容)
・本行本文異同あり (162)
・保坂の傍記→東大になる (1)
・東大の傍記→保坂になる (136)
・傍記本文異同あり (25)
(除-仮名漢字・送仮名・音便等)
東大本の傍記本文は、それを本行本文に組み込むと、ほとんどが保坂本と一致する。比率にして84%もの多きに達している。つまり、東大本は保坂本の類の本文を有する本文で校訂している、といってよさそうである。
以上の考察から明らかになったことは、次の3点である。
1.保坂本と東大本は、ほとんど同一(93%)の本文を持つものである。
2.両本の異同箇所(7%)のほとんど(63%)は、付属語に関するものである。
3.東大本の傍記のほとんど(84%)は、保坂本と同類の本文での校訂である。