【TopPage】 へ

 刊行の主旨

日本大学教授  杉谷 寿郎

 日本大学総合図書館は、戦後古典籍の蒐集に力を注いできており、その結果貴重な文学資料も多数収蔵されることとなった。その貴重書の一部は、「日本大学総合図書館影印叢刊」として複製され、また単独にも翻刻が成されてきたが、重美・重文級の貴重書や稀覯本にあってもいまだ公刊されていない典籍もある。『源氏物語』関係書もその類いであって、刊行を望む声が内外からしきりに寄せられてきている。
 このたび、その要望に応えるべく複製を企画したのは、三条西家旧蔵の『源氏物語』五三帖(夕霧巻欠)と、鎌倉時代書写の各巻単独本八帖とである。前者は、三条西実隆と長男公順、二男公条の筆になる紛う方なき三条西家の証本である。昭和三三年に総合図書館が三条西家から購入し、五四年「日本大学総合図書館影印叢刊之三」として桐壷・夢浮橋の両巻が岸上慎二教授の解題を付して複製された。が、同叢刊は市販はされていなく、また頭尾二帖のみの複製であった。今回、全巻の複製を行つて三条西家証本の全貌を公共の場に提供し、研究者の渇を癒すこととしたい。また、後者は、断片的資料ながら書写時点のはやいものであるので、公刊によって重要資料としてその存在価値を発揮することになるであろう。
 『源氏物語』諸本の本文については、近年見直しが行われて再評価の動きがしきりである。そのような状況のもと、『源氏物語』の貴重書の公刊は意義深いものがあると確信している。

 活字刊行を果せなかった本

 

学習院大学名誉教授 松尾 聡

 三条西伯爵家蔵の「証本源氏物語」が日本大学の図書館にやっと納まったと聞いた時は本当にほっとした。昭和初年から私も鈴木知太郎氏(後の日本大学国文科主任教授)も三条西公正氏の知遇を頂いて、公正氏を囲む九人の若い仲間で「証本源氏」のそのままの形での活字刊行を企てながら戦局の急迫で空しく遷延、漸く完成という間際に空襲で、一部の紙型だけが残つて灰に帰したというつらい思い出もある。空襲では公正氏のお邸も小宅も焼亡。敗戦直後はただ命を繋ぐことに追われる生活で公正氏には御無沙汰申上げていたが、二三年初冬の頃私は学習院大学の国文学専攻課程新設準備のために任された十万円のお金の使い残しをどう有効に使ったらよいかと思案しつつ古本屋街をさまよっていたら、たまたま公正氏にお会いした。事の次第をお話すると、氏はお家伝来の古書は疎開して無事だが御子息にお家の学問を継ぐ者はいないので然るべき所に譲って伝えたいと思っていた所だとて、「母校の図書館になら」との仰せ。こうしてお金の多寡は気になさらず僅か五万円余で能因本枕草子や伝定家筆伊勢物語以下百余点を賜わった。後で或人から前年春に既に栄花物語を古いお付合いの某書肆に売っておられたと聞かされた。私には気ぶりもお見せにならなかったが、堂上華族のお手許は窮迫しておられたのだった。そうした中で決して譲ろうとはなさらなかった証本源氏を晩年に決然として日本大学に譲られたのは鈴木氏へのよしみと安全保持への祈りのお心からであったことは疑いない。今回の複製は氏の、更に言えば実隆以下御先祖代々のみたまへのこよなき供養であろう。

 青表紙系の代表的証本

 

東京大学名誉教授・駒沢女子大学教授 秋山 虔

 古典の研究が細分化し、方法的にも錯綜する現況なればこそ、おのずから確固たる定礎が要求されることにもなるのだろう。諸文庫諸機関所蔵の古典籍の影印複製が各種刊行されつつあるゆえんだが、このたびの「日本大学蔵源氏物語」全十三巻刊行の意義はまさに格別というほかはない。
 その主体をなす三条西家証本源氏物語は、室町末期から近世初期に至る天皇家中心の公家社会において最も尊重せられた青表紙系の代表的証本であり、源氏物語諸本の伝来史のうえで極めて高い地位を占めるものであった。『源氏物語大成 校異篇』に校合資料として採用されており、その本文形態はつとに知られているが、かつて日本大学総合図書館影印叢刊の一として公刊された「桐壷」「夢浮橋」両帖を拝見し、「校異篇」によるのでは、その原状を知るのにいかに不足であるかを実感したことであった。それだけにこのたびの全帖複製の刊行には欣喜雀躍の思いを禁じえない。鎌倉期古写本八帖の加えられることも喜びの限りである。その本文資料的価値は言わずもがな、前記の証本と併せて古筆としての美的価値を享受しうるにつけても、いまさらながら日本の文化伝統、美意識の歴史に決定的な作用をもたらしたこの王朝の古典遺産の偉大さに思いを致さざるを得ないのである。

時宜を得た影印本刊行 『源氏物語』本文研究の新時代へ

 

関西大学教授 片桐 洋一

 最近、『源氏物語大成 校異篇』の誤りを指摘する学会発表が行われて話題になっている。
 しかし、それが誤りの指摘であるということが、矮小化した今の源氏物語本文研究の実態をよく示している。問題は、あの時期にあのように諸本を博捜し、あのような形でその大概を示された池田亀鑑博士のお仕事にあるのではなく、『大成 校異篇』の元版である『校異源氏物語』が完成した昭和十七年から半世紀以上にわたって、もとの写本を見ないで、博士の仕事の結果だけにおぶさって来た『源氏』研究者たちの怠慢にあるのではないか。プロの研究者として本文を論ずるのであれば、写本そのものは見られなくても、せめて写真や影印によりたいものである。
 このように思つている折も折、日本大学総合図書館に収集されている『源氏物語』の古写本の影印本が出るという。中心になるのは三条西実隆・公条・公順の筆になる三条西家証本であるが、鎌倉時代書写の本八種も加えられるという。藤原定家の監督下に書写された『源氏物語』が一種類にとどまらぬことが明らかになり、いわゆる青表紙本の実体を再検討しなければならなくなっている時だけに、まさしく時宜を得た企てと言うべきであろう。

  ●各巻の編成
 三条西家証本十一分冊〔オフセット線画版〕
  第一巻 一 桐壷/帚木/空蝉/夕顔/若紫
  第二巻 二 末摘花/紅葉賀/花宴/葵/賢木/花散里
  第三巻 三 須磨/明石/澪標/蓬生/関屋/絵合
  第四巻 四 松風/薄雲/朝顔/少女/玉鬘/初音
  第五巻 五 胡蝶/蛍/常夏/篝火/野分/行幸/藤袴/真木柱/梅枝
  第六巻 六 藤裏葉/若菜上/若菜下
  第七巻 七 柏木/横笛/鈴虫/夕霧/御法
  第八巻 八 幻/匂宮/紅梅/竹河/橋姫/椎本
  第九巻 九 総角/早蕨/宿木
  第十巻 十 東屋/浮舟
  第十一巻 十一 蜻蛉/手習/夢浮橋
 鎌倉期諸本集 二分冊〔オフセット網目版〕
  第十二巻 一 紅葉賀/松風(青表紙本)/松風(河内本)/藤裏葉(河内本)
         /柏木(河内本)/鈴虫(青表紙本)
  第十三巻 二 夕霧/宿木

【TopPage】 へ