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監修にあたって
 東京女子大学教授 室伏 信助

 戦後における『源氏物語』のテキストは、一部の例外を除き、その殆どが底本にいわゆる大島本を採択している。それは近代における『源氏物語』の本文研究の総決算ともいうべき『校異源氏物語』が昭和十七年に刊行され、その主底本に大島本が採択されたのに端を発する。戦後になって、これに基づく各種の用語索引と研究資料篇が完備し、『源氏物語大成』全八巻となって聳立した。ここにおいて『源氏物語』の本文研究の基盤は揺るぎないものとなったのである。
 しかし、この同種二様の本文はすべて活字によって示されたため、その利便さが翻刻の精緻さと相俟って、写本としての原本を検証する機会を研究者から奪ってしまったとさえいえよう。写本としての大島本は、実のところ活字本と同一ではないのである。写本には無数の修正の跡が残され、しかもその修正は複数次に及んでいる。『校異源氏』『大成』の底本もその修正の跡をたどり、その中から一つを選んで活字として作成されたテキストである。原本を直接閲覧し得なかった研究者は、その活字本に基づいて本文研究を行い、註釈を含むいわゆる高部本文批判を試みてきた。
 さまざまな事情があったにもせよ、無数の情報が含まれる原本の様態を回避した研究から、二十一世紀を展望する新しい本文研究、それに基づく註釈評論の類は生まれ得ない。今世紀の最後を飾る記念出版として、高度な印刷技術による本影印本は、はじめて綴じ糸を外して現れた数々の新事実と共に、今後の『源氏物語』研究のあらゆる分野にわたって不可欠の資科たることを信じて疑わない。監修者として同学各位とともに刊行の慶びを分かち合いたい。

『源氏物語』研究史上、記念すべき事業
東京大学名誉教授・駒沢女子大学教授
秋山 虔

 「大島本源氏物語は青表紙本中最も信頼すべき一証本であるが、その数量において、またその形態・内容において稀有の伝本であり、校異源氏物語の底本として採択、その稿を起した当時は勿論のこと、その後二十余年に至るもこれを凌駕する伝本の出現を聞かない。」これは『源氏物語大成 研究資料篇』(昭31)の中の文言である。
 日本古典全書本(昭和21〜30)の凡例には、この大島本を底本として「定家所持本の再建に努めた」とあるが、後続する現行の訳注書も、若干の定家筆本および定家筆本の臨模と目される明融本による十数帖のほかは、大島本を底本に使用するのが常道となった。全書本の方針が踏襲されたのである。
 しかしながら、再建のめざされる定家本とは何か。それが必ずしも一元的な底本ではありえず、定家自身による変動の証跡も明らかにされてきているのだから、再建といってもその作業は決して自明のことではないが、しかし、そうした事情を勘案しつつも、前記のごとき大島本の絶対的優位は動かすべくもないだろう。
 従って、大島本を底本とする『源氏物語大成 校異篇』の本文の価値は今後とも変るはずはないが、しかしながら、その本文には夥しい見セケチ・抹消・訂正・補入等、複雑多様な補訂作業が加えられているのである。その様態の細大漏らさぬ調査報告(新日本古典文学大系本附録)を目にするだけでも、『大成』の底本の活字本に安易に随従すべからざることを実感させられるだろう。その点、このたびこの大島本の全貌が、しかも袋織の綴糸をはずしての撮影によって補訂の過程につき新発見の得られる形で一挙に影印刊行せられることの意義は、なおさらはかり知れないものがある。『源氏物語』の研究史上の記念すべき事業というべきであろう。


『源氏物語』研究への新しい胎動
大阪大学教授 伊井 春樹

 大島本『源氏物語』が影印本として出版されるのを聞き、わくわくするような喜びと感動を覚える。この本が佐渡の某家から出現したのは昭和五、六年とされ、青谿書屋(大島雅太郎氏)の架蔵となり、池田亀鑑博士の知るところとなった。池田博士は、当時芳賀矢一博士記念会のもとで本文研究に従事し、昭和七年には河内本を底本とする『校本源氏物語』の原稿を完成させていた。ところが大島本の存在を知ると、全面的に作業を見直し、底本を河内本から青表紙本に改め、十年後に『校異源氏物語』として刊行、戦後には『源氏物語大成』となったのである。そのころ大島本が世に出ていなかったとすると、池田博士は河内本による校本を出版し、今日もそれが流布本として読まれていた可能性もある。研究者の良心として、困難な作業に立ち向かい、底本を変更するという決意をしたのは、それだけ大島本がすぐれていたためであるとともに、本文にかける執念のすさまじさを思わずにはいられない。
 今日、『源氏物語』の研究はまさに隆盛をきわめ、世界的文学としての評価はもはや不動のものとなった。それもひとえに安心して読むことのできる本文があってこそで、それを支えてきたのが大島本の存在である。現在の註釈書の大半が大島本を用いているのによっても、その重要さは明らかであろう。世に知られるようになって六十年余、これまで影印本として出版されてこなかったのが不思議に思われるほどである。大島本には、とても活字化できないさまざまなデータが詰まっている。影印本で徹底的に読むことによって、新しい『源氏物語』の研究の時代が訪れるはずで、この刊行を心から推薦する次第である。

『大島本源氏物語』全十巻の内容

第一巻 桐壷 帚木 空蝉 夕顔 若紫
第二巻 末摘花 紅葉賀 花宴 葵 賢木
    花散里
第三巻 須磨 明石 澪標 蓬生 関屋
    絵合 松風
第四巻 薄雲 朝顔  乙女 玉鬘 初音
    胡蝶
第五巻 蛍 常夏 篝火 野分 行幸
    藤袴 真木柱 梅枝 藤裏葉
第六巻 若菜上 若菜下
第七巻 柏木 横笛 鈴虫 夕霧 御法
第八巻 幻 匂宮 紅梅 竹河 橋姫
    椎本
第九巻 総角 早蕨 宿木
第十巻 東屋 蜻蛉 手習 夢浮橋

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←「賢木」五オ
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『大島本源氏物語の研究』の内容

          大島本源氏物語の由来………………………角田 文衛
          大島本源氏物語研究の展望…………………室伏信肋
          大島本源氏物語の書誌………………………藤本孝一
          大島本源氏物語の様態注と本文批判………室伏信助
                             藤本孝一

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