【本文研究の歴史】



『源氏物語』の本文に関する論稿を取り上げ、その概要を紹介していきます。
『源氏物語』の《本文研究史》が通覧できるものをめざしたいと思います。
自薦他薦を問いません。積極的な情報提供および協力をお願いします。
 ご連絡は 伊藤鉄也(t.ito@nijl.ac.jp) まで。


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1953年6月

池田亀鑑

『源氏物語大成』巻一・校異篇

中央公論社

■「校異源氏物語凡例」

◆以下に、論稿を引きながらまとめておく。

・「 校異ニ採択シタ諸本

 本書ノ校異ニ採択シタ諸本ハ、現存スル多数ノ写本ノ中カラ、厳密ナ比較研究ノ結果ニ基イテ選択セラレタモノデアツテ、青表紙本ニ於テハ大体吉野時代頃マデノ写本、河内本に於テハ大体鎌倉時代頃マデノ写本、別本ニ於テハ大体室町時代頃マデノ写本デアルガ、特ニ重要ト認メラレルモノハ必ズシモコノ制限ニ従ハナカツタ。」(一頁)

・採択諸本一覧の中の別本の項には、伝本名を冠したものとしては「陽明家本」「保坂本」「国冬本」「麦生本」「阿里莫本」の五本がある。これは、四十冊以上とある程度まとまった形で伝存するものであ。また、それ以外に略号で十一本の伝本名が掲載されている。

・「本書ノ校異ニ採択シタ諸本ハ、再三調査ヲ繰返シテ誤謬ヲ根絶スルコトニ努メタガ、所蔵者ノ都合ニヨツテ極メテ短時間ノ内ニ調査シ、再調ノ機会ヲ許サレナカツタモノモアル。例ヘバ、青表紙本中ノ横山本、別本中ノ保坂本ノ如キハソレデアル。尚原稿作製ノ都合上、昭和十三年以後ノ発見ニ係ル諸本ハ割愛シタ。」(五頁)

・「 底本

 前記ノ諸本ノ異文ヲ標記スルタメニ、ソノ中カラ底本トスベキモノヲ選択スルニ当タツテハ、厳密ナ考証ヲ重ネタ結果、藤原定家ノ青表紙本ヲ以テ之ニ当テルコトトシ、花散里・柏木・早蕨ノ三帖ハ現存スル定家本ヲ用ヰタ。ソノ他ノ諸帖ニ於テハ、現存諸本中定家本ノ形態ヲ最モ忠実ニ伝ヘテヰルト考ヘラレル大島本ヲ用ヰタ。但シ、桐壷・夢浮橋ノ二帖ハ大島本ガ補写デアリ、初音ハ大島本ガ別本系統ノ本文デアリ、浮舟ハ大島本ガ之ヲ欠イデヰルカラ、コレラノ諸帖ハ大島本ニ次グベキ地位ヲ有スル池田本ヲ用ヰタ。」(五頁)

・「 体裁

(中略)

別本

一 底本ト諸本トノ間ノ語句・文章ノ相違ハ、明瞭ニ誤謬ト認メラレルモノニ至ルマダ、スベテ之ヲ掲ゲタ。

一 別本モ河内本ト同ジク青表紙本トハ甚ダ相違スルモノデアルカラ、底本トノ対校ニ当ツテハ、青表紙本ノ対校ノ際ト同一ノ方針ヲ以テシテハ校異ガ夥シイ数ニ上リ、本書ノ如キ形式デハ掲載不可能トナル虞ガアルカラ、諸本ノ本文中ニ存スル書入ハ、別本ノ性質ヲ考察スル上ニ必要ナモノヲ除イテ、スベテ補入・ミセケチ・並列ノ形式ヲ示サズ、ソノ他ニモ簡略ヲ旨トシタ点ガアル。

一 底本ト諸本トノ間ノ仮名遣ノ相違、底本ト諸本トノ間ノ漢字ト仮名トノ相違、諸本ニ用ヰラレタ異体ノ平仮名ヤ漢字ノ略字・異体字・通行字等ニ関シテハ、スベテ青表紙本ト同様ニシタ。」(八頁)

 この文は、河内本の項とほぼ同一である。




1956年12月

池田亀鑑

『源氏物語大成』巻七・研究資料篇

中央公論社

■「研究・資料篇凡例」

◆以下に、凡例文を引いておく。

・「五 第二部にオイテハ、源氏物語ノ現存諸本ガ、イカナル系統ニ分類サレルカニツイテ、基準タルベキモノヲ吟味シ、ソノ基準ニ照シテ青表紙本・河内本・別本ノ三種ニ大別シ得ルコトヲ論述シタ。」(一頁)

・「九 別本ハ、右青表紙本・河内本ニ所属シナイモノニコノ呼称ヲ與ヘ、他日ノヨリ精密ナ考察ニ備ヘタ。」(二頁)




1956年12月

池田亀鑑

『源氏物語大成』巻七・研究資料篇

中央公論社

■「源氏物語古写本の伝流」

◆以下に、論稿を引きながらまとめておく。

・平安時代末期から鎌倉時代初期における本文校訂の背景

「一、鎌倉初期において源氏物語の本文に混乱が生じ、不明の個所が少なくなかつたこと。

ニ、家々に内容の相違する伝本がかなり多く伝えられてゐたこと。

三、その相違の個所が任意他本と校合されて本文に混態または混成の現象が生じてゐたこと。

四、読者または研究者によつてほしいままに本文を改め、安易に意を通じ易からしめたものもあつたこと。」

・「元来幻の巻の本文なるものは、青表紙本・河内本はほぼ同一のものであり、別本のみひとり著しい相違を示してゐる。それは単なる語句の相違に止まらず、全然文章の構造を異にするものである。」(ニ四頁)

・「右京大夫所持の本は、青表紙本の祖となった系統の本ではなく、全く異なる別本系統に属する本ではないかとの推定が鞏固となつて来るのであるが、今はまだこれを実証する何らの資料も見出されてゐない。(中略)仮に「別本」の呼称によつて集めておいた諸本の本文系統を整理することによつて、或ひはその秘密の一面が少しづつ明らかにされるかもしれない。別本の処置は今後の重大な課題であるが故に、慎重の上にも慎重でありたいのである。」(ニ五頁)




1956年12月

池田亀鑑

『源氏物語大成』巻七・研究資料篇

中央公論社

■「源氏物語諸本の系統」

◆以下に、論稿を引きながらまとめておく。

・本文系統の分別にあたって考えられる方法としての四種

「一、奥書(各巻の終りに存するもの)の記載事項を標準とする場合。

 ニ、青表紙本・河内本を対照して示した差異の条々を標準とする場合。

 三、諸註に引用せられた源氏の本文を標準とする場合。

 四、原本に近いと信ぜられる本を標準とする場合。」(四三頁)

・初期の本文異同の指摘

「千鳥抄及び帚木別註に附載された資料は、両本分別のためにはきわめて有力にしてまとまつた知識を提供してはゐるが、なほ完全であるとは言ひがたい。但し青表紙本・河内本の本文研究を今日の程度までも推進させる機縁となつたのは、実にこのささやかな・文献であつたことを忘れてはならないであらう。」(四八頁)

・「校合・校訂などの作業は決して性急に功を急いではならない。校異本といふやうな大事業が僅か一世紀にも足りない生命しか與へられてゐない人間にできる筈はない。」(五八頁)

・「幸はひにも大島本が伝存し、純粋な青表紙本本文を伝へてゐることは、殆ど奇蹟的とも言ふべきである。(改行)青表紙本は河内本に比して本文をみだりに改めず、伝来のままに尊重する態度をとつてゐる。このことは定家の性格に由来するものと思はれる。」(七八頁)

「ただここに特筆しておきたいことは、親行は諸異文を較べて妥当と考へるものを選択してはゐるが、みだりに本文を改めて偽作するやうな不徳は決して犯してゐないと信ぜられることである。」(一七〇頁)

○「第五章 別本の呼称とその性格」

・「「別本」といふのは、今日では青表紙本とか河内本とかに対立する意味に用ゐられてゐるやうであるが、もしこの呼称を「校異源氏物語」や「源氏物語大成」校異篇などによつてゐる人があるならば、かなり大きな誤解があるやうに思はれる。「別本」と称する一聯の系統の古鈔本があるのではない。実は「校異源氏物語」の凡例において断つたやうに、極めて便宜的な用語であつて、青表紙本でもなく河内本でもないと認められる諸本を、系統分別などを考慮に入れず悉く一様に「別本」の呼称において扱つたらわけである。従つて「別本」なる容器の中には、系統の明らかでない種々様々の孤立した伝本が、何の秩序もなく雑然と詰め込まれてゐるわけである。上品な喩ではないが、屑屋の籠のやうなものである。これは後で分類・整理されることを必要とする。それが「別本」なる呼称のもつ雑多性である。従つて別本は必ず整理されなければならない。」(一七一頁)

・「「別本」の呼称による古写本には大体左の種類が認められる。

 一、河内本成立以前の古伝本である場合。

 ニ、河内本成立以後の混成本文を有する伝本である場合。

 三、註釈的意図によつて取扱はれた本文である場合。

 四、絵詞・古註釈・古系図等に摘要引抄されて残存する本文である場合。

 更に第二の場合を細別して、

 イ、青表紙本と河内本との混成

 ロ、青表紙本と古伝本との混成

 ハ、河内本と古伝本との混成」(一七一頁)

・「伝西行筆竹河の巻断簡、同じく東屋の巻残缺、同じく竹河の巻一帖、伝源三位頼政筆柏木の巻一帖、伝二条院讃岐筆少女の巻一帖などは青表紙本でもなく、河内本でもなく、またそれらの混成でもないと考へられる。河内本の成立に参与した諸本は当然別本として扱われるべきものであるが、それらの本は殆ど現存しない。ただ伝津守国冬筆桐壷の巻は河海抄指摘の本文特性によれば、従一位麗子本の流れを伝へるものの如くである。従つてその一聯の古写本は麗子本と認められ、これを「別本」と呼ぶことができるかもしれない。」(一七ニ頁)

・混態・混成本文生成の原因二つ

「胡蝶装の一折乃至数折が缺脱して、機械的にその部分を他系統の本で補つた場合である。」「他の一つは、本文を相互に校合して、その一方を選択し、これを一筆で書写する場合である。中世の写本にはこの種のものがかなり多い。」(一七三頁)

・註釈的意図による本文の例として

「これは源氏物語においては比較的所見が少い。麦生本及びその系統と思はれる阿里莫神社旧蔵本の如き、あるひはこの傾向をもつかも知れないが、なほ研究を要する。かかる本文の性格についての断定的な発言は慎重でなければならない。これも今後に残された重要な課題の一つであらう。現に鎌倉時代の写本と思はれる伝本の本文と麦生本の本文とが一致する如き事実があり、俄かに中世の作為とみなしがたく、また麦生本の関係者が親行のやうな大規模な校訂事業をなしたとも考へられないからである。」(一七四頁)

・「「別本」の名称は書写年代に関係するものではない。従つて江戸時代に写された新しい写本であつても、本文の系統や、性格が特異なものであるならば、「別本」の名が與へられるべきである。(改行)「別本」の呼称は、従つて青表紙本・河内本の本文的性格が判明した後でなければ成立たないものである。しかして青表紙本・河内本いづれでもないものを、「別本」と呼ぶことをここに繰返し強調しておきたい。このやうな見解に立ち、別本の性格として考へられる主要なものを挙げれば、

 一、別本は青表紙本・河内本の形態・性格確立後にあきらかとなるべきこと。

 ニ、別本の成立に当つては、種々なる条件の存すべきこと。

 三、別本には誤脱・錯簡のために、意味の通じにくいものが存すること。

 四、別本には、右と反対に意味が通じ易く、整頓した本文を有するものも多いこと。

 五、別本には五十四帖のうち或特殊の巻のみが単独に伝へられるものが多いこと。

 六、これと反対に、校訂本文としては五十四帖まとまつたものも伝へられるが、それは近世以後註釈家の手を経たものに多いこと。

 七、別本の呼称中に包括される諸本は、殆ど系統的整理が加えられてゐないこと。」(一七五頁)

・「如何なる伝本といへども混成の事実の皆無なものはないであらう。比較的純粋性の保持されてゐると思はれる俊成・定家・光行等の家本においても、多少混成の事実はあり得たことと思はれる。平安時代末期における諸本の系統論的研究が逢着する最大の困難性はこの混成を如何に解消するかの点にある。」(一七六頁)

・「別本の呼称のもとに包括される諸本は、何ら系統的吟味を経たもでないことは、これまで縷々述べた所であるが、これらは今後の研究により一つ一つ入念に検査し、その種類を弁別して、そこに系統的整理を行ふことが要請される。」(一七六頁)

・「源氏物語は原作者在世中から、あるひは作者により、あるひは読者により、幾度かの改修・册定が行はれてゐる。」(一七六頁)

・「別本はこの種の問題を、未解決のままに集積する、いはば秘密の函であり、これを明らかにすることこそ、最大の急務といはなれればならない。」(一七七頁)

・耕雲本に関して

「現存する三系統の耕雲本を、各帖にわたつて検討するに、大体左の三種類に区別することができる。

 一、青表紙本系統 松風の巻一帖

 ニ、別本系統 橋姫・宿木・東屋・浮舟・蜻蛉・手習・夢浮橋以上七帖

 三、河内本系統 右八帖を除く四十六帖(但し初音の巻には不審の点が多い)(ニニニ頁)

・「耕雲本中には橋姫以下七帖の別本が混入してゐる。これはいかなる理由によるのであらうか。おもふにこれは前記三つの臆説中第二の場合で、校合本文が別本であつたために生じた本文転化と推測される。勿論これは憶測にすぎないが、保坂氏蔵薄雲・朝顔両帖の存在を踏まへての類推である。」(ニニ三頁)

・「耕雲本は中世以来、あるひは別本として、あるひは河内本として考へられてきたが、実は河内本を主体とし、別本七帖、青表紙本一帖をもつて構成される取合せ本である。但し系統上松風・初音の両帖には、なほ究明を必要とする点がある。」(ニニ四頁)




1977年1月

阿部秋生

「日本古典文学会々報 No.46」

日本古典文学会

■「河内本源氏物語の性格」

◆以下に、論稿を引きながらまとめておく。

・池田亀鑑の定義によれば、「河内本はふつうの意味の「写本」ではないということである。(中略)「定本」だといい、別のところでは「校訂本」といい、また「第三の異本を発生せしめた」ともいっている。山岸徳平氏の「尾州家河内本 源氏物語開題」では「混合本」という。ほぼ同様の結論である。」(2頁)

・光行・親行親子の校訂作業は二十年にもわたったが、「この校合作業は、今日見うる河内本の形で明らかなように、二十一部の諸本間の異文関係を明らかにする「校本」を作ったのではなくて、二十一部の諸本の本文をつなぎあわせて、一つの本文・河内本という「定本」を作ったのであった。その本文を選びつなぎあわせるときの基準は、「以義理之相叶」「為和字之読安」というところに現われていること、池田氏のいう「文意を通じ易からしめる」ことにあったもののようである。主観的には、親行の納得のゆくように二十一部の諸本の本文をとりあつかったことになるだろう。しかし、その結果は、原典の形にもどしえたものだという保障はない。」(2頁)

・「池田氏は、親行の仕事を、「解釈のための校訂」であるというが、親行は、話の筋道のよくわかる文章こそ原典の形であると考えていたのではないだろうか。だからこそ、親行とその一門は、この河内本という本文に自信をもったのであろうし、また、この校訂方針に当時の人々は信頼を寄せたらしい。」(2頁)

・「室町以来四百余年、河内本と確認しうるものは見当たらなかった。それが明確に存在することを証明したのは、大正十年(一九二一)十二月号『芸文』に掲載された山脇毅氏の「平瀬本源氏物語」という論考である。これに先立って大正五年六月に刊行された『校定源氏物語詳解』の巻頭には、定家本青表紙の「柏木」が口絵にあり、また曼殊院本(耕雲本)を使用すべき本として掲げてある。が、実際には使用できなかったはずであるし、また確実な調査がしてあったわけではない。河内本再発見は山脇氏の平瀬本確認のときとしていいだろう。」(3頁)

・平瀬本発見直後に刊行された金子元臣氏『定本源氏物語新解』は、『湖月抄』を金子本(耕雲本)で改訂したもの。これに触れて。「河内本に対する当時の学界の過大な期待を想定してもいいのではないだろうか。」(3頁)

・「『校異源氏物語』の底本も青表紙本に変えられた。一時期湧き立った河内本ブームも鎮静して、今日では、『源氏物語』として刊行されるもののの底本は青表紙本ということに落ちついたようである。目下のところ、『源氏物語』の本文の問題は、青表紙本の形にもどすことに集中しているといえようか。(改行)しかし、河内本が無用のものになったわけではない。二十一部の本文をつづりあわせてあることを、どのように使えばいいのか、という問題がわれわれにつきつけられていることに変りはないのである。」(3頁)




1979年8月

池田利夫

「日本古典文学会々報 No.74」

日本古典文学会

■「源氏物語の本文研究 ー穂久邇文庫蔵本の性格を中心にー」

◆以下に、論稿を引きながらまとめておく。

・『紫明抄』の「桐壷」を例にして、「当時にあっても、写し手の「自由」で本文は変えられないという認識はあったようだ。しかし裏返してみれば、根拠と判断されるなんらかの材料があれば、本文の一部を抹消したり、改訂してしまう可能性もあったのを、このことは教えてくれる。」(2頁)

・「穂久邇本の桐壷は別本がかかってはいるが、東山御文庫本が決して青表紙本ではなく、ときに河内本や別本に共通する顕著な特色(中略)を持つのに比べると、別本の一端を反映している伝本といえる。すなわち、青表紙本とは何かを考える上で、極めて示唆に富む本文である。」(3頁)

・「別本といえば、穂久邇本の匂宮、紅梅、竹河という、とかく議論のある三帖の異同は、青表紙本と河内本との比ではない。」(3頁)

・穂久邇文庫本の「匂宮」冒頭部分を大島本と校合して、「これは整理のつけようもない異同で、穂久邇本は、別本の保坂本に近いようであり、柏木・横笛・鈴虫三帖などもそうである。」(3頁)

・穂久邇文庫に関するまとめ。「別本ばかりの本ではないが、別本の整理から本文研究は再検討されるべきで、穂久邇本をまじえたそれは、今回影印本が刊行され、阿部秋生氏の書誌上の吟味や、分析が示されることで、一つの局面を迎えるにちがいない。」(3頁)




1986年6月

阿部秋生

『源氏物語の本文』

岩波書店

■刊行書全体を対象とする

◆以下に、論稿を引きながらまとめておく。

・「青表紙本が、河内本や別本よりは、原典の形を遺しているではないかというのは、文献学者が樹てた臆説である。」(13頁)

・「文芸研究にとって、文献学はたしかに準備作業にすぎないのだが、準備なしに仕事をはじめるのは無用心すぎるのではなかろうかと思うのである。」(28頁)

・「青表紙本・河内本は、定家・親行それぞれの方針で校訂されたもので、それが『源氏物語』の原型でないことはほぼ明白である。」(37頁)

・「池田氏その他の方々が言われるように、河内本は積極的に意味の通じるように具体的に手を加えたもののように思われる。」(38頁)

〈資料2〉・「理論的にどうなるかは別にして、実際的な作業としては、今われわれの間で知られている資料(主としては多数の写本類)がどういう性質のものかをより一層精確に調査・検討することが要求されるのであろう。鎌倉〜室町末の書写本だけでも、百数十部はあることが報告されている。その諸伝本がどういうものかを、調査し、正確な報告を作ることも、まだ充分にはできていないのである。」(45頁)

・「『源氏物語』の場合、中世以来の青表紙本・河内本という名称・概念が先にあって、それに相当する伝本(本文)を求めるという分類手続きは異例であり、奇異なことである。」(72頁)

・(池田亀鑑氏の伝本研究は)「現存諸本三万冊を比校・調査して、現存諸本の形状・性格に即して分類概念と名称とを設定するのではなく、青表紙本という名称と概念にふさわしい伝本(本文)を見つけようとするのである。(中略)

現存諸本のどれを青表紙本と決定するのか極め手になるだけの条件はやはり整わない。(中略)

「形態・性質・伝来」に関して、「青表紙本の原本と認め得る」だけの解説・論証は見当たらないが、(中略)

各帖の末尾に勘物(奥入)をもっているか否かによって、ある伝本が青表紙本であるか否かを決定することができるとする。(中略)

「国宝四帖」を青表紙原本と認めることによって、青表紙本という名称と、それによって束ねられるべき現存諸本とがはじめて結びつけられたのであった。(中略)

形態的特徴によって、内容ともいうべき本文の系統を篩い分けることにどれだけの正当性があるのかという不安感である。」(73頁〜77頁)

・(池田氏は)「どうやらこの第三の形態的特徴こそが青表紙本であると否とを決定する極め手と考えられていたのだと思われる。だが、それほどの重さをこの特徴一つにかけていいものであろうか。」(81頁)

・(尊経閣文庫本に関して)「青表紙原本が、十数本の青表紙本といわれるものの中で孤立している、そんなことがあっていいものなのか。こういう本を無条件に、青表紙原本と認めていいのかどうか。(改行) 「帖末に奥入をもっている」という形態的特徴をもっている伝本を、その本文そのものにまで立ち入って吟味してみると、「青表紙本」としては認めがたい疑問が出て来る。」(96頁)

・「青表紙本は定家が家の証本として定めた一本である。『明月記』の嘉禄元年二月十六日に記されている本をさすのか、その後の校訂を経た本文をさすのかはともかくとして、定家の証本青表紙本の本文は一種類であるべきなのだろう。青表紙本系統ということである程度の幅は与えうるが、現実にはその本文は二、三種類に割れている。」(98頁)

・「『源氏物語』の現存諸本の系統をたてる時、青表紙本・河内本を分類の項目に用いることはさけるべきであったのではないか。青表紙本・河内本とはどういう性格の本文で、現存諸本のどれがそれに相当するのかを考えることは一つの課題ではあるが、『源氏物語』の巨大な伝本群を前にして、これを文献学的に処理しようとする時には、まず本文そのものの形状・性格の分類からはじめるべきで、この青表紙本とはという類の課題を正面に立てることは避けるべきであった。手がけるにしても、本文の形状・性格の分類・整理の後にまわすべきであったのだろうと思われる。その本文そのものを扱うことを後まわしにして、伝本の形態的特徴に頼ったことは、手順を二重に誤るもので、「最も危険である」ことは、『枕草子』の場合だけではあるまい。(改行) 本文の系統の分類には、伝本の形態的特徴を無視してはならないが、諸本の本文そのものの比校とその吟味とを中心に据えるべきだということが原則だろう。他の文学作品の伝本の系統研究はこの原則によって行われたようである。『源氏物語』の場合、この原則を破ったわけではないのだろう。つまり、『源氏物語大成』校異篇の仕事が先行していた、本文の比校・吟味はすんでいると考えられたのかもしれない。(中略)青表紙本の研究としては、当然の順序であろうが、『源氏物語』の諸本の系統を立てる手順としては、逆であったということなのではあるいか。」(98頁)

・(池田亀鑑の次の別本の四分類を引いて

 一、河内本成立以前の古伝本である場合。

 二、河内本成立以後の混成本文を有する伝本である場合。

 三、註釈的意図によつて取扱はれた本文である場合。

 四、絵詞・古註釈・古系図等に摘要引抄されて残存する本文である場合。)

「定家の証本の書本が古伝本諸本の一本であるならば、これを「別本」としなければならない。その別本の忠実な書写本は、これまた「別本」であるのが当然である。つまり、青表紙本は別本でなければならないという奇妙なことになる。(中略)

本文に即して『源氏物語』の現存諸本を分類するならば、青表紙本とは、河内本・別本と対立して、諸本を三分する名称ではなく、別本四類中の第一類、河内本成立以前の古伝本の中をさらに細分する時の名称で、別本第一類、古伝本系別本の中の青表紙系別本となる。従って、別本と相対する本文は河内本だけということになる。(中略)

平安時代書写の伝本の系統の諸本を別本第一類、古伝本系別本とするならば、青表紙原本の書本はその中の一本である。」(106頁〜108頁)

・「池田亀鑑博士は、青表紙・河内本以前の段階で、「作者または他の第三者」による「少からぬ修正」(『源氏物語大成』研究篇、二八頁)が加えられたことを想定している。これは、青表紙本が作られる以前の時期に、原典の本文が改訂された場合があることを意味している。しかし、別のところでは、「青表紙本そのものは、たとひ誤脱が多くとも河内本のやうな混成又は校訂本文とは異なり、一つの系統線上にあるものと考へられ、その点では純粋な本文と見てよい」(日本古典全書『源氏物語』一、解説、八二頁)と言ったこともある。原典の本文の形態を残していると考えていたことを意味するのだろう。誤脱・修正が加えられたが、原典の面影を失ってしまうほどではなかったのが青表紙本だという期待であろうか。」(108頁)

・「紫式部が書いた草稿本と清書本とが共に世に出て書写されて流布したためとすべきなのか、それとも書写する時の書写者が自由・気ままに物語本として書写することを重ねたためとすべきなのか。いずれも、鎌倉時代はじめに定家や親行が嘆声を発せざるをえないような事態を生じる原因になりうるとは思われるが、今ここで、そのいずれか一つにしぼることはできない。」(125頁)

・「校異篇とその他数種の古写本とによって本文転化の状況を見ながらテキストを作った時の経験による主観的な感想の一つは、『源氏物語』の本文の異同は、数において決して少なくはないが、各巻の話の次第や物語の話の組織に影響を与えて、変えてしまうほどの大きな異同や激しい異同は少いということである。(中略)

青表紙本・河内本・別本のいずれの本文で読んでも、『源氏物語』の話の筋道が変ってしまうことは殆どない、変るのは表現としての微妙な陰翳・強弱だと言ってよさそうに思う。(中略)

推測にすぎないが、『源氏物語』の本文の異同のこのような性格だけから考えると、青表紙本・河内本・別本とわかれているが、原典は一つ系統のものであったのではないかと想像される。前述したように、草稿本と清書本との間で、改訂・修正が行われたにしても、文章表現の修正・彫琢という程度のことで、物語としての話の筋道が変ってしまうほどの改訂はなかったように思う。」(127頁〜128頁)

・「「もてなやむ」が心情に即した言い方であるのに対して、「あつかふ」は動作に即した言い方である。」(133頁)

・(桐壷の検討を通して)「鎌倉時代書写の本はすべて「く」、う音便化した形は、すべて室町時代の書写本である(134頁)。(中略)

陽明文庫の異文には、表現を客観化するという一つの傾向があるかに見えて来る(137頁)。(中略)

原著作者ならぬ書写者などが、その意思で、書本の文章(表現)を改めようとした形跡は青表紙本にはなかったようである(141頁)。」

・「現存別本諸本の本文相互に、青表紙諸本や河内本諸本の本文相互の場合よりも、数量も多く、程度も激しい本文転化があることは、その本文転化の多くは、青表紙本や河内本の成立以前、おそらくは平安時代に既に発生していたことを意味しているのではなかろうか。(中略)別本諸本の本文転化の状況を検討してみると、原典が複数であったことに理由を求めることはできないと思う。というのは、(中略)語順や語彙が変るだけでなく、主語が変って文の意味が変り、物語そのものの叙述を崩している文章が、草稿本・清書本のいずれかに書かれていたことを想定しなければならないが、そのような文章を原著者が遺しておいたことを期待することはできないからである。(中略)これらの異文を整理しようと試みても、草稿本系統の本文とか、清書本系統の本文とかのいくつかの系統に束ねることはてきないと見るべきもののようである。とすると、原典は複数であったかもしれないが、現存別本諸本のもっている激しい本文転化の跡は、原典が複数であったかどうかとは関係ないことで、原著者以外の人々、おそらくは書写者が、本文の混成・校訂・改訂などの手を加えたことによるものと考えるべきなのであろう。」(156頁〜157頁)

・「別本諸本相互の異文は、青表紙諸本相互や河内本諸本相互の異文より数も多く、またその異文の中には、同一本文の一部が違っているというような書写に際しての単純な誤脱の類とは言いがたいもが時々ある。それらは、誰かの意識的な改訂かとさえ思われる異文である。何か意図するところがあったのかどうか、その辺のことについては、今のところ、何とも推測する手がかりもないように思う。」(177頁)

・(夢浮橋の検討を通して)「青表紙諸本では、かなり複雑微妙な心情表現になっているところが、別本では単純に直線化した形に言いかえられていることが往々にしてあるように思う(196頁)。(中略)写本の筆者が、甚だ気楽な態度で書写しているらしいことが目につく。そういう点に別本の本文の一つの特徴があるのだろう(203頁)。」

・「別本諸本の意識的な本文改訂かと見えるこのような激しい本文転化の跡が、別本諸本の本文を性格づける特徴かと思われる(214頁)。(中略)

草稿本・清書本と複数の原典が存在したことは確かなことであったらしいが、そのことが、現存別本諸本相互の激しい異同の来由を全面的に説明しうるとは限らないように思われる(217頁)。

現存別本諸本相互の異文の中には、草稿本や清書本の中に使われていたとは到底考えられない辞句がまじっていることを認めざるをえないだろう(218頁)。(中略)

現存別本相互の異文のあり方には、草稿本系・清書本系とを分けうるような系統的な姿は全くない、むしろ、何の系統も考えられないほど無秩序なあり方に見える(218頁)。(中略)

平安時代、物語本を書写・継承して来た人々の間では、書本(原典)の本文(表現)を尊重して、これを忠実・精確に書写することが仕事の基本だということは、考えられていなかったもののようである。(220頁)」

・「一八〇〇頁を超える『源氏物語大成』校異篇の本文の中の僅か三頁分の異文を一応検討しえたにすぎない。」(220頁)
(作成・伊藤)




1990年5月

中村一夫

『源氏物語小研究』創刊号

おうふう

■「源氏物語別本の性格 ー敬語から見たー」

◆見直しが進められている源氏物語の本文の中で、これから注目すべきものは手つかずの状態のまま論じられてこなかった別本に分類されている伝本である。ここでは各伝本に使用されている敬語を国語史の観点から捉え直し、より平安時代の物言いらしい本文はどれかということを考察する。(文責・中村)




1991年11月

中村一夫

『中古文学』第48号

中古文学会

■「若紫巻の本文 ー源氏物語別本の敬語法ー」

◆源氏物語の伝本相互に見られる本文の異同は、書写者の不注意などの物理的要因もさることながら、物語の理解度、さらには物語への態度という享受意識の差が大きな原因であると考える。本文の異同を生む背景には原本を尊重しつつも自らが表現に参加しようという態度があると予想される。その過程でおのずと書写者の物語の理解の深浅や思い入れなどが表現に反映するはずだし、当然のように彼の生きた時代の言語規範が映される。これらのことをふまえて、源氏物語全巻の中で最もよく読まれたと思われる若紫巻の本文における敬語法を考察する。(文責・中村)




1992年3月

伊井春樹

『中京大学図書館学紀要』第13号

中京大学図書館

■「中京大学図書館蔵『源氏物語』本文の性格」

◆若菜上・下巻を例示して述べられる。目次は次の通りである。

 一、「藤壷女御」と「桐壷女御」
 二、「大宮」と「おほぢ宮」
 三、数値の特色

以下、引用を中心として概要を示す。

・中京大学図書館蔵『源氏物語』の後筆の校合書き入れは、「所持者が全面的に当時流布した青表紙本で校合し、その結果を底本に書入れたようである。」

・「中京大本の五帖は、別稿として岡嶌偉久子氏が指摘されるように、本文だけではなく体裁からも阿里莫本ときわめて近接しており、数少ない別本と処理される伝本の一つの位置にある。」

・中京大本が阿里莫本と同じように、「桐壷の女御」を「藤壷の女御」に改訂していることに関して。
「女三宮の母女御は藤壷ではなく桐壷の方がふさわしく思われてくるが、これも「桐壷の女御」のことばを持つ本文への合理的な解釈ではあろう。書写者が桐壷更衣への思いから錯覚して「桐壷の女御」としたのか、藤壷に移るまでは桐壷を御所としていた痕跡なのか、底本は数の多い本文と異なると消去してしまうには惜しく思われる。」

・「青表紙本で読み慣れてしまっている私たちにとって、それ以外の本文は「異文」としてとかく排斥し、正当な評価を与えようとしないのがこれまでの傾向であった。しかし、河内本にしても、それらの系統では処理されない本文であっても、もう一度青表紙本と比較することなくその本文を通して読むのが緊要ではないかと思っている。阿里莫にしても、源氏物語大成の校異として採用されている断片的な本文を見るにすぎなく、全体像はつかみかねたし、一本だけというのはどうしても信頼性に欠ける憾みがあったが、中京大本の出現によって伝来する本文の確かさを知ることができるようになった。」

・「光源氏は、旧年立によると二十一歳の葵巻では大将と呼ばれており、明石から帰郷して後権大納言となるものの、物語ではいつ中納言に昇進したのか明らかではない。青表紙本ではそれを二十歳以後とし、中京大本では二十歳以前としてまったく逆の考えを示し、このあたりも光源氏の造型とからんで興味ある問題だが、本論とも離れてくるので指摘するにとどめておく。」

・若菜下の異文に関して。
「青表紙本での、真木柱の結婚をめぐっての場面にだけ見られた式部卿宮を「大宮」と呼ぶ三例は、中京大本・阿里莫本では存在しなく、「おほぢ宮」「おほぢ君」「宮」となっているのである。このように二本の一致によって、逆に青表紙本に用いられていた特殊な「大宮」の用法ははたして正当なのかどうか、またそれを用いての辞書の解説にも疑念が生じないわけではない。」

・「中京大学本・阿里莫本の方が呼称に画一的な一貫性が見られるのは、むしろ「大宮」を奇異な表現と思って訂正した結果なのか、定家本においては場面を重視する立場からの補正によるのか、これからだけではどちらとも判断できない。ただ、前者だとすると、書写者ないしは所持者は、かなり物語全体を熟知し、より正当な表現をこころがけようとしたともいえるわけで、流布本と異なると一蹴すことはできなくなるであろう。」

・日付けなどの数値の表現に関しても奇妙な現象があり、内容的に解釈に違いが生ずるものがある。

・「一つ一つの本文をまず読んでいくことが、別本と呼ばれる本文の正当な評価にも及んでくるものと思う。」

→岡嶌偉久子「源氏物語阿里莫本」(『ビブリア』90号、昭和63年5月)
(文責・伊藤)




1992年3月

岡嶌偉久子

『中京大学図書館学紀要』第13号

中京大学図書館

■「中京大学図書館蔵『源氏物語』について ー麦生本・阿里莫本との関係ー」

◆目次は次の通りである。

 一、中京大学図書館蔵『源氏物語』の書誌的概要
 二、中京大学図書館蔵『源氏物語』の本文 ー麦生本・阿里莫本との対校からー

以下、引用を中心として概要を示す。

・「本書五册の書写年代は、料紙並びにその筆跡等から室町時代末期頃とみておく。」

・「この中京大本五巻五册で奇異に感じていることは、その書き出しが、五册の内三册までも裏丁から始まっているということである。」

・橋姫巻は、中京大本と麦生本は同筆である。

・「この両本にみるように、同一人物が麦生本源氏物語を書き、また中京大本のそれを書いたという事実、このことからは文学的素養のある武将というよりは、多分に職業的な色彩の強い者という印象をうける。書き屋という職業の成立が確認できるのは江戸に入ってからであるが、江戸初期以前にも書写を生業の一つとする者達が存在したであろうことは、当然予想されることではある。あるいは地方大名の下にいた連歌師達がその侯補となろうか。」

・「中京大本・麦生本には共通した仮名遣いの乱れが多いが、阿里莫本では比較的正しく使われていること。」

・固有の書き癖。中京大本・麦生本が「をこなひ」「すまひ」とするところを、阿里莫本は必ず「おこなひ」「すまゐ」と書いている。

・「麦生本と阿里莫本間のこのような異同に際して、中京大本は常に麦生本と一致している。(中略)やはり、阿里莫本の親本は別のテキストであったということになろう。
 これ等の点からも、麦生本と中京大本とは親本を同じくして書写、ないしは直接の書写関係。対して阿里莫本は同系統としてひじょうに親しい本文ではあるが、時代の下がること、及び書写の際の態度や教養の差異によるというばかりではない本文の隔りが、先の二本との間に見てとれるのである。」

・本稿は、つぎのようにまとめられている。
「中京大本と麦生本とには内に同一筆者が存在し、本文もまた、仮名遣い及び字母に到るまで極めて酷似しており、この両本の間には兄弟あるいは親子といった直接の関係が想定できること。加えて、この両本と阿里莫本との本文の差異が、量的にも質的にも少ない中にあって尚、幾分かは明確になったのではないだろうか。」
(文責・伊藤)




1993年1月

室伏信助

新日本古典文学大系『源氏物語一』

岩波書店

■「大島本『源氏物語』採択の方法と意義」

◆以下、引用を中心として概要を示す。

・新大系本『源氏物語』の底本は大島本であり、欠巻の「浮舟」については、東海大学付属図書館蔵『桃園文庫源氏物語』(明融本)が選択された。

・「仮りに後の発見にかかる明融本が当初存在したならば、定家自筆の臨模とされる明融本が優位を占めたことは当然あり得たであろう。そうして、ここに示された底本採択の基本方針は、その後大きな影響力をもち、校注評釈書本文の採択規準にとってかわるようになる。」

・戦後の代表的な校注評釈書の本文採択の方針一覧
 日本古典全書/日本古典文学大系/日本古典評釈全注釈叢書/日本古典文学全集/新潮日本古典集成/完訳日本の古典

・「朝日全書本は巻別に底本を示さないが、当初は『校異源氏物語』の底本採択規準によって校定されたと見ることができよう。」

・評釈/全集/集成/完訳の四種類の注釈本文で、いずれかが大島本以外を選定した巻は、次の15巻である。
 01桐壷・02帚木・08花宴・11花散里・23初音・29行幸・28野分・
 34若菜上・35若菜下・36柏木・
 45橋姫・48早蕨・51浮舟・53手習・54夢浮橋

・「戦後に刊行された代表的注釈書は、いわゆる青表紙本を基本として、その復元ないしは原本への遡源を目標に、微差を調整する方法として同系統その他の諸本を参看していることは、共通した校定理念として確認されるのである。」

・定家自筆の本とされるものに関しては、その評価が分かれ、内容に対する疑問もある。
 「野分の巻など「定家の筆跡かどうかについては、似てもいるが、必ずしもそうとも断定しがたいだろう。鎌倉末期の書写とされている。本文は青表紙本であるが、ときに河内本に近い形の混入していることがある」と評され、底本(全集本)には採択されなかったが、その後、同じ校訂者によって底本(完訳本)に採択されている。」として、「巻々による優先順位の規準は相対的なものであるというのに帰着しよう。」といわれる。

・「近代における『源氏物語』の本文研究は、池田亀鑑氏の諸本分類の規準によって、ほぼ完成の域に達した観を呈し、それ以後の本文研究は『源氏物語大成』によって築かれた成果に随順してきたのであった。」

・阿部秋生氏の「別本と相対する本文は河内本だけということになる。」という発言に対して、室伏氏は「驚くべき結論に達している。」とした上で、「これが近代における『源氏物語』諸本研究の現在であるからには、注釈書本文における底本採択や校訂の指針として、重くうけとめなければならないことは言うまでもない。」とされる。

・「ともかくも微細な原本研究が諸本分類や底本採択の規準をつくっていくことは、これまた研究の現在に立った新たな展望といえるであろう。」




1993年5月

岡嶌偉久子

『ビブリア』100号

天理図書館

■「源氏物語国冬本 ・その書誌的総論・」

◆ 本論の構成・目次は次のようになっている。

はじめに
一 源氏物語国冬本の書誌的概要
 (一)書誌的事項
 (二)各巻別書誌一覧
 (三)錯簡・脱落
 (四)筆者目録
二 鎌倉末期成立原国冬本源氏物語について
 (一)「伝国冬一筆源氏物語五四帖」の存在
 (二)巻末記「南無阿弥陀佛十遍」
三 現装国冬本の成立 ・補写と改装・
 (一)室町末期の補写
 (二)江戸初期の改装とその周辺
おわりに

 以下、本論で指摘されている重要な事を中心にしてとりまとめておく。

 まず、国冬本は正確には「伝津守国冬等各筆源氏物語」というべきものだとされる。この本は、「鎌倉末期写一二巻一二冊と室町末期写四二巻四二冊から成る源氏物語五四冊。」で、鎌倉末期書写の一二冊が津守国冬筆と極札にあることから、従来「国冬本」と呼んできたものである。呼称については、今後とも「国冬本」でよいと思われる。

 『源氏物語大成』が採用した国冬本は二五巻、そのうち別本としてが二○巻である。

・「別本群の中にあってかなりにまとまった形で一つの本文を保持する伝本といってよいであろう。しかもそれが、鎌倉末期の写本に於ては一二巻全て一筆である。
 このような国冬本に対し、従来、別本の中にあってきわめて重要な一本とは認識されながらも、現実には『源氏物語事典』諸本解題に十数行の略解があるにすぎず、二五巻採用の『大成』にも、その解説はない。(改行)本書は又、五四冊の内一八冊までに錯簡・脱落の存在している写本でもある。これらの錯簡をはじめとした写本としての現状からは、各時代における文化史的な事象が断片的に垣間見えているようにも思われる。」

と言われるように、本文史上のみならず、文化史的にも非常に興味のある本である。

 以下に、書誌的事項などについて、ポイントを列記する。

・国冬本は全五四冊だが、「「匂ふ兵部卿」との題簽を持つ冊子の中身は、実際には夕霧巻の後半部であり、匂宮巻に相当する本文はどこにもない。夕霧巻が二分されて、その前半には正しい巻名が、その後半には誤った巻名が与えられている。従って正確には、匂宮巻を欠いた五三巻五四冊となる。」

・「鎌倉末期頃写伝国冬筆源氏物語に対して室町末期頃に四二巻の補写が行なわれた、その時期以降更に改めて当緞子を用いて仕立て直した、改装表紙とみられる。」

・「現在の国冬本に残された痕跡は、補写の時期を更に下って、江戸期に入っての再度の改装の結果であることを示している。」

・「少なくとも寛文・延宝頃までには国冬本の現在の装訂が成った推定していいのかもしれない。」

・「鎌倉末のものだけではなく、新写の四二巻にもこれほど多量の錯簡が存在していることは、新規の書写、製本時には考えにくいことで、これは新たな改装のため、不用意に五四冊の綴じ糸が切られ、中身の本文の確認もないままに、外側ばかりがいわゆるお道具本として美しく仕立て直された結果とみなければならないであろう。」

・「恐らくは天明七年以前に蒔絵箱が仕立てられて、すでにその中に国冬本五四冊が収まっていたであろうと推測される。」

・七通の書簡・書付からの推測として、次のように述べられる。

「国冬本は堂上家や名家等に長く伝来したものではなく、江戸期に於てだけでも二度、三度と持主を変えて、古本や骨董の取扱いを業の一部としていた人達の手を経て伝わったものであるらしいということである。そして恐らくは、その過程に於て比較的初期に現在の装丁に改装されたのであろう。」

・「各巻を通じて奥書・識語の類はない。但し、伝国冬筆一二冊のうち九冊の巻末には、本文と同筆で「南無阿弥陀佛十遍(桐壷巻のみは「是見人々南無阿弥陀佛十遍)」とある。そして、現在、帚木・夕霧・竹河巻の三冊にはこの巻末記入はないが、元来は全冊に存していたと思われる。」

・本書は一八巻にも及ぶ錯簡・脱落が多いものである。「その中には本文の錯乱の甚だしさからか、別本のようではあるが『大成』に採用されていない巻もある。」

・「綴葉装における錯簡・乱丁のバリエーションを、実に豊富に見せてくれる格好の素材でもある。」

・「伝国冬筆一二巻には元来全てこの「南無……」という一行が書かれていたと推定しなければならないであろう。」

・「国冬本の記載はそのような形式的な結びの言葉ではなく、物語が終って改めて、文字通りこれを見た者、読んだ者は「南無……」と六字の名号を十遍諷誦すべし、というものではなかったのだろうか。」

・「作者式部の救済、そしてその罪深い書を読んだ読者自身の救済のために、一巻読む毎に六字の名号十遍の諷誦を指示するものであったのだろう。浄土宗・念仏宗が盛んとなった時期、鎌倉末期に成立した源氏写本としては時代にふさわしい一行ではあるが、それにしても、先に見たように一巻ずつの全冊に「南無……」と記すことは、いささか度がすぎているような印象もうける。(中略)この点に於ても、源氏国冬本はユニークである。」

・「現存の鎌倉時代写源氏物語の中に、伝国冬筆とされるものが多く存在していることは事実で、本館蔵で計三点、蓬左文庫等その他に所蔵の伝国冬筆源氏を数えれば十本を超すのではないかと思われる。これは各時代の歌壇に於て、それぞれに活躍した津守家代々の当主の中でも国冬に固有のことである。このことは、源氏物語伝本における国冬の位置、その何らかの位置を示しているかとも思われる。」

・室町末期補写の国冬本の書写の質について、次の指摘がある。「書写者が本文と和歌とをよく区別していない、更に、こういった物語の類を写し慣れていないようにすら感ずる。」

・中でも橋姫巻は錯乱した本文をそのまま写しており、これは、「たとえ源氏物語の中身を知らなくとも、読んで文脈を理解して写している者には耐えられないことであろう。全く本文を読まず、ただ文字を写すだけという、このような書写者の姿が浮かびあがってくるのではないだろうか。」ということになる。

・国冬本の室町末期補写四二巻は、極札によると一四人だが、その中には「南都から山辺の道周辺にかけての人々を書写者に極める」という、中央で活躍する人々とは異なるユニークなグループの存在が指摘されている。

 なお、本稿には重要な問題提起がなされている。

「古写本は年月と共に当然散佚の度合いが高まること、又源氏は五四帖という大部の故に分担しての書写、といった自然発生的な原因の他に、あるいは、本来鎌倉期に於ては源氏の一筆書が成立しにくい何らかの理由があったのではないだろうか。管見の限りではあるが、かくの如き現存源氏物語鎌倉写本の実状からは、その背後に、室町期の寄合書流行とは又違う、たとえ厳密なものではないにしろ何らかの傾向があったのではないかと考えている。」

ここで言われる「源氏の一筆書が成立しにくい何らかの理由」や「その背後に、室町期の寄合書流行とは又違う、たとえ厳密なものではないにしろ何らかの傾向があったのではないか」との指摘については、「罪深い書」とされていたことが歯止めとなっていたのではとの意見であるが、さらに詳細な言及が欲しいところである。

○真木柱巻の前付遊紙裏丁に記された「五十五丁/まきはしら」という墨書に関連して、「単に写す人達、書き写すということを職業としている人達である。一枚いくらという賃金で書写したものであれば本文と同筆で「五十五丁……」という記載が残ることも、あって不思議はないのかもしれない。」と言われる。国冬本の室町末期補写の四二巻については、このような事情を背景にして成立したものであることが指摘されている。これは、『源氏物語』の伝流史を知る上で、貴重な点である。

 以上、私なりに論稿に即して要約してみた。本稿では、国冬本の本文については言及されず、別稿にまとめるとされている。その詳細な検討結果が一日も早く公にされることを、楽しみに待ちたい。
(文責・伊藤)




1993年9月

室伏信助

『日本文学』第80号

東京女子大学

■「人なくてつれづれなれば ー源氏物語の本文と享受ー」

◆以下、引用のみを掲載する。

・「春の日の夕暮を「日もいと長きに」と描くのではない、「人なくて」の内容が活写する表現を選んだ数少ない古人の読解力、享受力に改めて目を見開かされる思いがしました。たった一語句の差が、作品の主題の把握の差に及ぶとしたら、それは大きな問題となりましょう。」

・「別本は、青表紙本でもなく河内本でもない、それ以外の異本を総称するときの呼称です。この分類概念は最新の捉え方からすると問題がありますが(注4、新大系解説)、ひとまず『源氏物語大成 巻七 研究資料篇』の規定に従って話を進めます。」

・「音読と音読を書写に反映する読みこそ、幾多の異文を生み異本を作る動機だといえないでしょうか。」

・「本文異同の実態を通して、その表現を生み出し、そこに或る思いをこめてきた古人の篤い心を読むならば、それこそ一字一句の異同から先に見た長文の変化まで、すべてこれ作品を持ち伝えた古人の心の軌跡以外の何ものでもないのです。」

→「別本の本文」,阿部秋生,『源氏物語の本文』,昭61
→「伝本状況について」,阿部秋生,『源氏物語の本文』,昭61
→「わが身のかくいたづらに沈めるだにあるをー源氏物語の表現機構ー」,室伏信助,『むらさき』第七輯,平2.12
→「大島本『源氏物語』採択の方法と意義」,室伏信助,新日本文学大系『源氏物語一』,平5
→「漢籍受容と源氏物語」,池田利夫,『源氏物語の文献学的研究序説』,昭63
→「桐壷巻異文考証」,吉岡曠,『源氏物語と和歌 研究と資料U』,昭60
→「河内本『桐壷』巻の校訂過程(下)」,吉岡曠,『文学』,昭59・2
(文責・伊藤)




1993年10月

中村一夫

『源氏物語研究』第3号

おうふう

■「中山本源氏物語の本文 ー若紫巻におけるー」

◆現在最もよく読まれている青表紙本系統の源氏物語の世界に対して、重要だといわれながら未整理のまま排斥されている状態の別本の世界の読みを試みる必要があると思われる。つまり各本の性質なり特徴なり系統なりを考える際に、語彙や語法だけでなく、それらがいかなる固有の物語の世界を現出させているのかという点を明らかにしなければならないだろう。本稿では中山輔親氏旧蔵の鎌倉時代筆写の零本のうちの一本である若紫巻を対象にして、紫上や光源氏を中心に、青表紙本とどれほど異なった描写がなされているかについて比較、考察した。(文責・中村)




1994年10月

中村一夫

『源氏物語研究』第4号

おうふう

■「源氏物語陽明文庫本の敬語 ーその運用と表現価値ー」

◆近年、古代の敬語を硬直した体系としてではなく、柔軟で動的な運用を許す形式として見直す試みが目立つ。すなわち諸作品の論理に組み入れられた方法としての敬語を明らかにしようとする。ここでは鎌倉期書写の古伝本である陽明文庫本の敬語の運用および表現価値について考察を加える。陽明本ではこれまでの読みの主流となってきた青表紙本系のそれとは物語のとらえ方、描き方が異なる。より作中人物に寄り添い、場面を具体化しようという姿勢を見せるのであった。(文責・中村)




1994年12月

池田利夫

『源氏物語と源氏以前ー古代文学論叢第十三輯』

武蔵野書院

■題目「別本「澪標」巻写本の出現 ー鶴見大学図書館新収本とその影印ー」

◆概要以下に、論稿を引きながら概要をまとめる。

・『源氏物語大成』に採択された諸本の数について、「青表紙本系統が底本を含めて二四本、河内本系統が二〇本であるのに対して、別本は一六本と、やや少い程度であるが、両系統本が、いずれの巻においても数本以上の校異本文を示しているのに対し、別本には校異本数に大きなゆれがある。」という指摘ではじまる。これは、別本に完本がないことに起因するとされる。
・『源氏物語大成』における別本の採択数は、二本が10巻、一本が3巻、〇本が6巻ある。
 別本が採択されていないのは、若紫・明石・澪標・絵合・松風・藤袴である。
・『源氏物語大成』に別本が収録されなかった巻において、現在確認できる別本に属する本文は、中山本「若紫」・蓬左本「松風」・国冬本「松風」(『源氏物語大成』は河内本として対校)・保坂本「松風」がある。
・「国冬本は取り合わせ本で、鎌倉時代末までの書写本を含み、松風を含む四帖は、その最も新しい書写年代の伝鳥井小路経厚筆本であった。(中略)しかし、池田氏は、校異本として伝経厚筆四帖のうち松風のみを採択した。」
・麦生本について。「かなり癖のある筆蹟のこの本も、書写態度が必ずしも良好ではなく、独自の誤脱などを散見するが、『大成』は、かなりこれを採択している。」
・阿里莫本について。「麦生本に近い本文を持つ巻々があるものの、実に元禄五年(一六九二)まで下る高坂松陰の書写本であり、湖月抄本文の竄入の懼れさえあると大津有一氏が指摘されている。」
・「書写年代や伝来の由緒などから見て、両系統本に比較すると別本に対する採択基準は、いささかゆるやかであったと言えるが、それでもなおかつ、別本も一本も採択しえなかった巻が、六巻もあったのである。」
・『源氏物語大成』に採択される別本の数が、柏木以降は多くなる傾向がある。宇治十帖では、別本七本の巻が三巻、五・六本の巻が五巻もある。
・「青表紙本と河内本両系統間の本文異同が、前半の巻々に偏って多いことは知られているが、宇治十帖になると、それが極めて乏しい巻があって、伝本調査に際して、いずれに所属させるべきか困難を感じることがあるほどである。その宇治十帖で、校異すべき別本本文を持つとされる伝本が多く採択されているのは、いかなる理由によるのであろうか。」と述べて、別本とは何か、という問題に戻っていく。
・別本とは何かについては、「私も、いずれは正面切って論じたいところなのではあるが、今はまだいかにも材料不足で、なおもうしばらくは、地道な調査と分析を続けるほかはないであろう。」と、結論を保留されている。
・平成五年夏の鶴見大学図書館新収本「澪標」は、室町時代末期書写、折紙列帖装の別本である。
・本稿は、「新出の澪標一帖の書誌を示し、それが、いかなる本文を持つがゆえに両系統本のいずれにも属さないかを指摘し、全文を翻印して、別本を考察する上で、いかなる資料たりうるかに論及しようと思う。」という主旨のもとにまとめられたものである。


(未整理)




1995年2月

室伏信助

『國文學・源氏物語を読むための研究事典』

學燈社

■「源氏物語の本文」

◆以下に、論稿を引きながらまとめておく。

・通説となっていた池田亀鑑による源氏物語本文三分類説が、近年の阿部秋生による二分類説(いわゆる青表紙本を別本とする)の提唱によって、「源氏物語の本文そのものをどう捉えるかについては、いわば振り出しに戻った感が深い。」 
・阿部秋生による「青表紙本を古伝本系別本の中の一つとする画期的な成果で、この概念によれば、これまで青表紙本を中心に考えられてきた諸本分類や系統論そのものが根本的に瓦解すると評し得る。」とした上で、「テキストとは何か、テキストを読むとはどういうことかという根元的な問題にまで及ぶ課題を提示したことを意味する。」といわれる。
・「阿部の具体的な提言の中にも、活字との対決とその根底をなす漢字か仮名かの表記認定の問題も横たわっており、息苦しいまでに挑発的である。」
・「青表紙本を別本中の一つとする阿部の新説を先に紹介したが、その根拠の正当性を認めるならば(認めるべきである)、諸本系統論も原作がない以上、相対的なものである。従って伝本はすべて個々に読まれ、個々に評価さるべきもので、その認識の確立こそ、いま源氏物語の本文という課題が投げかける最大の問題点なのである。」
・「先の玉鬘の文章の読解については、大島本に拠る限りは『全集』本の方法に従うべきで、その点『完訳』本は新しい混淆本を作成したという外ない。」
・「要は、各伝本に凝結した表記の重みに耐える読みこそ、いま最も求められるべき本文のすがたなのだということである。」




1996年6月

中村一夫

『本文研究 考証・情報・資料』第一集

和泉書院

■「保坂本源氏物語の本文の一性格 ー朝顔巻の別本をめぐってー」

◆保坂潤治氏旧蔵本は、源氏物語の別本諸本中でも陽明文庫本と並び鎌倉中期に書写された本文として高い評価が与えられる。しかし、その実態はこれまでほとんど公にされていない。一方、東京大学附属図書館蔵本は室町時代中期の書写で、その本文の大部分が青表紙本系であったため、これも詳しい調査がなされていなかった。本稿ではこの両本の朝顔巻が極めて近い本文を持つ同系統本であることを報告し、さらに音便に着目することでその本文の質も問題にする。(文責・中村)




1997年3月

室伏信助

『新日本文学大系 源氏物語五』

岩波書店

■「明融本「浮舟」巻の本文について」

◆以下に、論稿を引きながら概要をまとめる。

・『新大系』では、底本である大島本の欠巻「浮舟」は東海大学付属図書館蔵『桃園文庫源氏物語』(通称、明融本)を使用している。

・ただし、「明融本「浮舟」巻の本文の様態は、大島本のそれと微細に異なり、たとえ根源を等しくする本文であっても、書写者を異にし校訂者を異にすれば、様態に変化を齎すことはむしろ当然といえよう。」と言われる。

・明融本には大島本とは異なる様態上の特徴があることから、本稿ではまずその様態の確認を表にして示している。

・『新大系』では、補入の語句を取り込んだ本文を再現することによって、文章構造の変化した箇所などがある。しかし、これについては「明融本の選んだ表現意識に添う校訂こそ、この伝本を採択した事由でなくてはならない。」と言い、採択した本文の原態ではなくて書写補訂がなされた結果としての本文の再建を目指すことを守り通す姿勢が顕著である。あるがままの姿で読み解くというこの態度はみごとである。

・助詞「に」「は」などの異同を例にして、文脈を読み解く上での位相を詳細に解読している。そして、「両様の理解が成り立つ場合は、一度は通説にない解釈の可能性をさぐる必要があるのではないか。」と言い、「明融本「浮舟」巻を支えてきた書写者、校訂者の心意に寄り添う理解」を述べ、「ここに訂正印を施さなかったのも、単なる異文参照ではなく、両様に読める可能性を次世代に託した心遣いだったかも知れないのである。」と、写された本文を生きたものとして尊重する態度を明確に示している。

・近代の注釈作業という読みの歴史の一面性を指摘して、「実際に写本を手にすることがなくなった近代、もっぱら活字本を通して一方的に裁断された理解を前提に古典が論じられているとするならば、改めて考え直してみなければならないだろう。」と、古典を受容することの根本的な問題点へと言及する。

・石田穣二氏の「明融本浮舟の本文について」と『新潮日本古典集成』における本文の取り扱いを例にして、その校訂方針の不統一を「画一的でなく」と評している。このことは、後に「画一的ではないところに大きな特色があるように思う。」と言う。さて、「文意をより正しく判断しようとする立場にあること」に理解を示しながら、「この注釈態度は底本に明融本を採択する必然性を失いはしまいか。」と批判する。さらに、「ある固有の伝本をいま現在読むという行為は、その固有性を結果において凝縮した本文読解の成果として読むことを意味する。」と、筆者の考えを提示している。

・次の発言は注目すべきである。「明融本の整定はそれ自身、見事な読みを示した本文と考えられないだろうか。」

・吉岡曠氏の帰納法的な本文批判論について、「究極的には氏独自の美意識が計量的帰納法を凌駕して存在する」と評される。そしてさらにまとめて、「吉岡氏の論の根底には、先にも述べたように『源氏物語』の本文・正確には表現といった方が的確だが・に対する氏独自の美意識があり、それが定家自筆本を根源とする後世のいわゆる青表紙本のあるべきすがたに絞られていく過程こそ、氏の本文研究の精髄ともいえるのである。」といわれる。

・対して室伏氏自身は、「定家自筆本に発する青表紙本を固定的に捉える方向に結論を見いだす考えはなく、読みという行為はつねに転化発展していくという捉え方をしている」という態度を表明される。

・吉岡氏の論を取り上げたのは、「異なり語数の比較という一面に限ったとはいえ顕著な事実としてやはり認めなければならなかった」ためだが、「問題はその事実をどう読むのかの一点にかかっている。」とされる。そして、結局は、「あえて大胆な私見を述べれば、かくも異なる本文状況を青表紙本という枠内にとり押さえる不自然さは異常だということであり、そのことは当然のことながらそうした枠を設けて異文の取捨を行わなかった書写者のテキストを読む原点に立ち還ることを示唆しているということでもある。」とされる。つまり、異文を見逃してきた過去の受容者の、本文への対処に関しての再認識を問うているのである。

・本稿は次の言葉が最後の部分にある。「新古典文学大系の『源氏物語』が大島本を一貫して採択したのも、言ってみれば、この一本に凝縮した古人の篤い思いを、簡単に他本に置き換えることができなかったということに発しているといったら当っていようか。」『新大系』が大島本を底本にしたことの意義が、ここに宣言されているといえる。

→石田穣二「明融本浮舟の本文について」(『東洋大学紀要』第十四集、昭和35年5月、『源氏物語論集』昭和46年)
→池田亀鑑『源氏物語大成 資料編』73頁・66頁(昭和31年、中央公論社)
→吉岡曠『源氏物語の本文批判』(平成6年、笠間書院)
→室伏信助「わが身のかくいたづらに沈めるだにあるを・源氏物語の表現機構・」(「むらさき」第27輯、平成2年11月、『王朝物語史の研究』平成7年、角川書店)
→室伏信助「人なくてつれづれなれば ー源氏物語の本文と享受ー」(『東京女子大学 日本文学』平成5年9月)
→室伏信助「源氏物語の本文」(『国文学』平成7年2月)
→野村精一「『源氏物語』の本文史について・書誌の文明史的考察」(『源氏物語と平安京』平成6年、おうふう)
(文責・伊藤)




1997年3月

伊井春樹

『保坂本 源氏物語解題』

おうふう

■「保坂本源氏物語(東京国立博物館蔵)の伝来と書誌」

◆以下に、引用しながらまとめておく。

・「保坂本源氏物語の存在が初めて世に知られたのは、昭和十二年二月七日(日)の東京帝国大学山上会議所で催された「源氏物語展観」における出品によってであった。」

・昭和七年十一月の『校異源氏物語』原稿完成(出版は昭和十七年)時の『源氏物語に関する展観書目録』における諸本分類は、「河内本系統の諸本」「青表紙本系統の諸本」「青表紙本・河内本以外の系統の諸本」となっている。

・『源氏物語系統論序説』(岩波講座日本文学、昭和八年一月)では、項目は「青表紙本」と「河内本」だが、「諸本に関する概説」には、「先づ何よりも青表紙本と、河内本と、耕雲本との性質を明らかにし、それ等の標準的な形態を規定した上、これに照合する事によって、所謂別本系統の諸本の性質ならびに形態が闡明されなければならない」とあり、「早くから「別本」の概念は勿論、名称も存在はしていたようである。もっとも、保坂本を調査した報告書では、「古本」と称しているように、まだテクニカルタームとしては確立していなかったのであろう。」

・「保坂氏が松平楽翁本を入手したのは昭和十年二月のことで、桑名の竹内氏の仲介によったというので、それまでは松平家に襲蔵されていたようである。翌年の十一年五月六日、保坂本は旧国宝に指定されている。」

・「松平家に伝えられていた時点では浮舟巻は存在していたはずで、いずれの折にか一帖だけが紛失するなり事故が生じて手放されたと考えられる。」

・「『展観書解説』では「藤原為家筆各筆」と記されるが、本書に付された鎌倉期の古写本分極めには「慈鎮和尚」と「冷泉殿為相卿」の二人しか認められないので、何かの誤りがあったのであろう。」

・この本文には、他本による校合書入れとか訂正が数多くなされており、大成本の校異の採用にも問題があるようである。」
(文責・伊藤)




1997年3月

伊井春樹

『保坂本 源氏物語解題』

おうふう

■「 保坂本源氏物語の本文の性格」

◆保坂本五十三帖のうち、絵合以降の三十六帖が鎌倉期の書写である。

内訳は、別本二十五帖、河内本七帖、青表紙本四帖である。

・「ここにまとまりのある貴重な別本の本文が伝来したといえる。
『源氏物語大成』の校異の採用について。「青表紙本以外となると校異の採用の仕方はかなり揺れがあたようで、以下も取り上げるように不統一であった感を免れない。」

・「補入である旨の指摘はなく、(略)書入れを無視してしまっている。(略)やや奇妙な表現となってしまう。(略)補入を採用するのであれば遺漏のないようにすべき(略)このように、補入や訂正箇所の校異への採用の方法に、大成本はかなりの基準のあいまいさが残る。」

・「ミセケチになっていることを校異で指摘する必要がある。」

・「4ではミセケチを認めながら、ここではもとの本文を採用し、補入も無視する態度を示す。それでは、その校訂方針が一貫しているかというとそうでもなく、」

・「今日と違ってきわめて条件の悪い中での校異作成であり、後輩の研究者たちははかり知れない恩恵を受けているのだが、だからといってやはり誤りは誤りと認めた上で利用するしかない。」

・(補注5より)「『桃園文庫目録上巻』(昭和六十一年、東海大学附属図書館)によると、陽明文庫本は池田宏文氏によって、昭和七年十一月から翌五月にいたるまで、巻の順は不同ながら一気に書写したようである。(略)(昭和七年の)展観記念会を催す一方では別本の書写に着手しているわけで、青表紙本を底本とする校異本はかなり早くからもくろまれていたのであろう。」

・『源氏物語大成』の校異の問題。「近代になっての新しい異文発生の例といえよう。(略)校異では二重の読み誤りを犯してしまったのだといえる。」「その違いを無視してしまっているのは杜撰な処理といわざるを得ない。」「補入とミセケチの取り扱いがもっとも混乱しているようである。」

・「微妙な表現の復元まで校異に求めるのは酷なことかも知れないが、後人による補入やミセケチだけを生かしてしまうと、それはもはや本来の保坂本ではなくなってしまう恐れもある。」

(文責・伊藤)
 




1997年3月

伊井春樹

『保坂本 源氏物語解題』

おうふう

■「保坂本源氏物語の表現 ー「けはひ」と「けしき」ー」

◆論稿を引用しながらまとめておく。

・『紫式部日記』の「秋のけはひ入りたつままに」を例にして、「けはひ」と「けしき」は揺れのあることばであったことから論は始まる。「それは場面をどのように理解するのかといった、読みの方・ ともかかわってくる。」と、筆者のこの問題への視点が明示される。

・「「けはひ」と「けしき」は、基本的には観念的に対して具象的であり、感覚的であるのに対して視覚的と分類できはする」としながらも、これを「単純に分類するのはきわめて困難」だと言われる。

・「保坂本の別本としての性格をトータルとして論じるにはためらいがないわけではない」とした上で、「私は一つ一つの本文を、他本との校合によって読むのではなく、あくまでもそれぞれの物語世界を持つ作品として解釈しようとする立場にある。椎本巻での音羽山の景観にしても、それを「けはひ」としたのは、保坂本の必然的な世界と理解し、そうすることによってどのような物語が展開するのかをたどっていきたく思っている。」

・「洗練された文体として「さま」の優位性を強調するのではなく、重複感はあるものの、「けはひ」とする本文の存在も認め、その表現しようとする世界を素直に読むべきであるとするのが、私の主張したい点である。とかく、作者の著作したオリジナルは唯一であったとの観念から、室町中期以降流布本としての地位を占めるようになった青表紙本の絶対性を説くのではなく、所詮それとて定家にまでしか遡及できない本文だけに、別本に語られたような物語世界の存在も認知すべきであるとの提唱といえよう。」

・「いくつかの例に見られるようにことさら「けはひ」とあるのは、誤写とか偶然というのではなく、やはりそれなりの存在意義のあることばとして位置しているはずである。保坂本などの書写者が勝手に解釈して挿入したのではなく、本文の流布という長い歴史的時間の流れの中で、それぞれ伝本ごとの世界が構築され、読みつがれていった証跡なのだろうと思う。

・「これまではすべて青表紙本による立論であり、河内本とか別本それぞれの伝本の表現世界がとりあげられることはほとんどなかった。」(補注「青表紙本以外の本文を対象とした成果としては、渡辺仁作『河内本源氏物語語彙の研究』(昭和四十八年、教育出版センター)、岩下光雄『源氏物語の本文と享受』(昭和六十一年、和泉書・ )等がある。」)

・「「けはひ」は六四語(一七パーセント)、「けしき」は八三語(一一パーセント)が、別本の諸本では別の言葉になっているか、脱落してしまっている。」

・「青表紙本の「けはひ」が別本諸本で「けしき」と表現されるのは一九例、そのうち一一例が保坂本、阿里莫本・御物本・陽明本・国冬本・横山本が各三例ずつという内訳を示す。これなども、保坂本がきわだった現象を呈するが、物理的とか、偶然によるのではなく、これまでも考・ してきたように、それなりの表現価値を持ち、「けしき」として読んできた世界が保坂本に定着した結果と理解すべきであろう。表現されたことばを尊重し、人物相互の関連や内実にそって読むと、語り手はどのような展開をそれぞれの場面でしようとしたのか、物語のあらたな広がりが見えてきそうである。」

・保坂本の夕霧像のほうが「緊迫した作品として読めてくる」として上で、「別本の幾本かと河内本はそのように読んでいたはずであるし、確かにそのような本文が流布もしていたという事実は尊重すべきであろう。」

・「このように読んでいくと、保坂本としての一つの意味を持った世界が語られていることを知るであろう。」

・空の景観は古来「けしき」とされており、平安末期の物語でも同じようである。ただし、「数の上からは「けしき」の優位性は変らないにしても、「空のけはひ」とする表現は確かに存在し、『源氏物語』の世界でも語られていたとなると、「空」は「けしき」とするものだとする論理はなりたたなくなるであろう。」と言われる。

・筆者の態度は、次のように明確にされている。「これまでもくりかえしてきたように、私は二つのことばの優劣を断ずるつもりはなく、そのような本文が確かに存在し、読まれてきた事実を指摘したく思っているのである。」「別本のこのような表現は、後人なり書写者の判断によるのか、物語の成立当初からのことばなのかは明らかではないが、そのように読まれてきた本文も存在するという歴史的事実を、私は指摘しておきたく思うのである。」

・「青表紙本に用いられた「けはひ」は、別本諸本では二九例が脱落し、代わりに二六例が挿入されており、「けしき」のほうは三○例が継承されることなく、五二例が新たな描写として補われる。数だけからすると、別本では「けしき」がより多く取り込まれたといえるであろうか。」

 まとめのことばは、以下のようになっている。

・「これまでいくつか取り上げてきたように、「けはひ」にしても「けしき」にしても、保坂本なら保坂本の中でそれぞれの意味を持ち、青表紙本とはまた異なる、別の世界をこうちくしたことばとして存在していることを知るであろう。それがどのような意義を持つのか、本文の原形にまでたどることはできないまでも、青表紙本と拮抗するか、あるいはそれ以前から読まれていたという事実は無視するわけにはいかない。このようなことばを蓄積していくことは、やがて保坂本に限らず、それぞれ伝来した本文のトータルとしての世界を解明していくことになるであろう。」

(初出誌、『詞林』第20号、1996年10月、大阪大学古代中世文学研究会)(文責・伊藤)




1997年3月

伊井春樹

『保坂本 源氏物語解題』

おうふう

■「東京大学図書館蔵浮舟について」

◆以下に、論稿を引きながらまとめておく。

・保坂本『源氏物語』は、浮舟を欠く五十三帖であった。本書でこの欠帖を補うのに東大本を当てるにあたっては、次のように言われる。「東大本は保坂本と繋がりのある性格を持つ伝本だけに、浮舟巻は青表紙本で、別本でないのが残念なのだが、この巻を保坂本の補遺として用いることにした。」

・東大本は、室町中期に書写された五十四帖で、『源氏物語大成』に校異はなく、あまり注目されなかった。

・東大本は、近年、別本としての性格が考察されだした。(伊藤鉄也「澪標巻の別本ー東大本を中心にー」・中村一夫「保坂本源氏物語の本文の一性格ー朝顔巻の別本をめぐってー」)

・東大本は「保坂本ときわめて緊密な関連」があり、保坂本の補写十七帖の青表紙本も、「近似した性格を持つ」ものであることが指摘されている。これについては、「東大本が保坂本を転写したのではなく、共通した祖本の存在を想定」する一方で、「不足の巻々を補って五十四帖のセットにした保坂本は、それ以降数度にわたって転写がなされ、第二次、第三次の書写過程を経た一本が東大本となるのではなかったかとも思われてくる。」と、その本文の書写系統の可能性を示唆しておられる。

・「保坂本が別本の中でもやや特異な表現を持つだけに、孤立しているのではなく、確かに鎌倉期前後には流布していた本文であることを知ったことは、大きな収穫であろう。」と、この保坂本の本文の価値を評価される。

・東大本については、大津有一氏は「だいたい室町中期の書写とみられる」(『源氏物語事典下)とするが、筆者は「私の見たところではそれよりも後、室町後期ないしは江戸初期にまで下るのではないかと思う。」とされる。

・東大本の須磨・蓬生も別本に加えるべきだとする。「精査していけば従来とは異なった性格を持つ本文となることであろう。(中略)とりわけ、別本とする巻がふえているのは注目すべきであろう。」として、東大本の本文系統を分別したものがあげられている。その中の別本と認定されたものをあげる。12須磨・14澪標・15蓬生・20朝顔・30藤袴・32梅枝・34若菜上・36柏木・41幻・42匂宮

・東大本の浮舟は、青表紙本の性格を持つが、三条西家や肖柏本と共通する、河内本的な要素の本文である。

(文責・伊藤)




1998年3月

藤井日出子

『中京国文学』第十七号

中京大学国文学会

■「源氏物語麦生本について ー桐壷巻の本文の特性(一)ー」

◆以下に、論稿を引きながらまとめておく。

・中京大学図書館蔵『源氏物語』(五冊本)は、別本とされる麦生本・阿里莫本と同系統の本文であることは、すでに指摘されている。
・若菜上・若菜下巻においては、「地の文において青表紙本などが最高敬語とする「せ・させ給」の語を中京大(阿里莫)本では使役の意のみに使用」していることを、既発表論文で考察された。
・同じく、若菜上・若菜下巻における「おはします」について、中京大(麦生・阿里莫)本では、「この語にさらなる高貴性を付加し、それを主人公に付与することにより、物語世界にいっそうふさわしい主人公憎を得ようとしたことが窺われる。」として、中京大本の特異な敬語意識についても、既発表論文で考察された。
・中京大本には、本文に削除や増補という操作が行われており、結果として人物像がゆがめられていることは、重大なことだとする。
・「中京大(麦生・阿里莫)本の本文の削除、省略、増補、敬語の改変などは、その特異な解釈によって引き起こされたものであることを示していると考える。しかもこれらのことは、中京大(麦生・阿里莫)本の、少なくとも若菜上・下、橋姫・早蕨の各巻が同様の意図に基づいて制作されている、ということを窺わせるものであろう。」
・「この小論は、主として麦生本桐壷巻の阿里莫本および河内本との関係についての考察である。」
・桐壷巻の検討過程での言及をひいておく。
「阿里莫に一致するのは青表紙本の三条西家本のみであり、この本での後世での校合を示していよう。」
「校合以前の阿里莫本の姿が麦生本と同じであったことを示す痕跡といえよう。」
ここで藤井日出子氏が、現存阿里莫本本文が他本との校合や修正による混成本だとされる点について、私は疑問を持っている。混成本は麦生本の方が、その可能性が高いからである。麦生本における傍記異文の本行本文化については、拙稿を用意している。
・「河内本は合成本文といわれているが、実はこのように解釈上の改変も行っているといえる。」とか、「河内本の合成本文的性格が顕著に見られる。」とされる点について、河内本がどのようにして出来た本文かを、再度確認する必要性を痛感する。「合成」とか「改変」という捉え方についてである。
・阿里莫本は、「麦生本と照らし合わせることで修正前の姿に復元可能である。」とされる。ただし、その麦生本も校訂を経ているものなので、ともに揺らぎを持つ本文同士の比校については、難しい資料操作が要求されよう。
・麦生本については、「青表紙本文に微妙な語句の変換などを行なって、この河内方の特異な解をいっそう推し進めているといえる。」として、河内本の影響を受けているとされる。
・また、麦生本の本文の特性の一例として「麦生本の特異な解による本文成立に、『原中最秘抄』の解が関わっていること」を指摘されている。




19年月

■「」

◆以下に、論稿を引きながらまとめておく。

・「」(2頁)

・「」(3頁)




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